ない才能.

ある才能(持っている才能)については全く想像もつかないのに、ない才能(持っていない才能)については何となくわかるのは、なぜだろうか。理由は定かでないけれども、その事実については何の感慨も抱かない。ないと分かっていて無理したりもがいたりする必要は、今のところ感じていないからだ。
先日、愛着を抱いて側に置いていた、エアープランツ、という類の植物を死に追いやってしまった。栽培、観賞には水も土も必要ない植物だそうだ。正確には空気中の水分を自分で吸い取って生きていくので、乾燥する季節は、定期的に一晩水に浸してやらねばならない。この類の植物を一度干からびさせたことがあるので、今回はまめに様子を観察して適度に水分を与えていたはずだったのだが、梅雨に差し掛かった辺りから「顔色」が悪くなり始めた。下手に気を遣いすぎたのが仇となったのか、終いに、根っこ(ほうれん草でいう束になっている部分)から痛んで、触れると崩れてしまった。
途中まではうまくいくのに、立派な最後を見届けたことのないものに、美術と植物の栽培、そして写真、があり、両方とも嫌いではなくむしろ好きなのだが、どうしたっていつもうまくいかない。これはもう、才能としか云いようがないのではないか、ということにしている。
植物については、命を大切にしたくば触れないことだ、としばらく思うことにする。

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高級住宅も広い土地もなく、単調な色彩と形状の住宅ばかりが並んでいる地域に住んでいるが、それでも思い思いに丹精された庭は季節ごとに目を楽しませてくれる。
この季節は専ら紫陽花で、少し前だとジャスミンの香りでむせ返りそうになっていた。ところどころで薔薇も咲いている。薔薇は高級なイメージだが、庶民の手による雑多な寄せ植えの中や、塗装が剥がれたり経年と風雨で色あせたりしている壁を背にして咲いている方が、不思議と目に留まりやすく味わいがあるものだと思う。

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薔薇の木、という名の喫茶店がある(調度品や雰囲気がよく、平日の会社員御用達で繁盛はしているが、味と給仕に関しては大して良い店とは思えない)。
薔薇の木、と聞いて、薔薇の木とはどんな木なのか、当初想像がつかなかった。見掛ける薔薇は大抵低木か高くとも背丈位で、木が沢山花をつけているところを見たことがない。
ある曇天の日、下を向くのがあまりにしんどい為上を向いていつもの住宅地をとぼとぼと歩いていたところ、高いところに真紅の花が、白い壁の洋風家屋を背景に幾つも咲いているのが目に入った。花の一つ一つが大振りで、ビロード状の肌理は見事なものだ。
それが最初に見た、薔薇の木だった。まるで絵の様な風景。
(こういう場合も、写真にしない方が、才能のないものにとっては正解なのである)