自分と他人.

レポート書きに費やすつもりが、ひとに会いに行き、帰宅して眠っただけで一日終えてしまった。
待ち合わせの予定が、ひとの予定変更で少々狂い、最後は行き違いにまでなってしまった。変更が出る度に自分の都合をあわせ、心配したり待ちぼうけの鬱憤を我慢したりしながら、暇つぶしと約束の地を、心身ともに行ったり来たりした。そこに、ひとがやっと着いて「どうして約束の場所にいないの。出る時メールもしたのに。」と怖い顔で云う。遅れた事情は仕方ないから了解しているが、「心配したんだよ」の代わりに「遅い」の一言くらい云ってやろう、そして後は鬱憤も心配もすっかり忘れて楽しもうと決めていた私は、その対応で言葉も表情も失ってしまい、駅で別れるまでただただ涙を堪える事に始終する羽目になる。
折角大切に思って大切にしていたのに、そのものやひとに対する気持ちが無碍になった時、私は途方もない哀しみにくれるのだな、と御手洗いで、ハンカチ(水玉柄)の濡れた面を内にたたみ込みながら、分析していた。それから、自意識過剰な奴め、と泣き笑いをして、外に出た。
人びとの役に立ちたい、自分が出来る事は何か、自分は人びとの為に頑張れたか、それらばかり考えてきたし、それで良いと思ってきた。自分の行為に見返りを求めない、期待しないという事を大前提として、である。見返りを期待しない、と云いながらも、見返りだけで私を受け入れてくれる人達の事を哀しく思う自分は、必ずいる。そんな人達はとても当たり前な考えの人達であり、許す/許さないは問題外である、という事も知っている。けれども、哀しく思ってしまう。そういう自分を汚く思う時もあれば、聖人ではないし単なる凡人なのだから仕方ないと思う時もある。
という様に、日々自分についてばかり考えてきたが、一方で果たして他人を受け入れる事に関しては気をまわしているのだろうか、とふと気になった。他人が私にしてくれた事、向けてくれる気持ちへのアンテナは、意外に感度が低い気がしてきた。折角の気持ちを受け取らずに、別の自分好みのものばかり求めていやしないか。他人の好意を受け取る事も理解のうち、大切にする事のうちなのだ、という事を、暫く忘れていた。

                            • -

好意を受け取る事、幸せになる事は、自信が無い時は難しい。自信が無いと、相手からも自信を奪う結果にもなる。無ければ取りに行くまで、かしらん。

                            • -

二晩連続で涙を流していたらば、瞼が腫れた。面接等の前日は要注意か。