雨.

天から雨, ame kara ame.

居住地域に特に被害がない事をいいことに、紫外線が無いから、と嬉しがっているのだが(良い御湿りで。・・・良くもないか。)湿度と気温が、晴れている時と余り変わりが無い、と思うと、途端に不快度数が上がる。
雷光が眩しい程悪天候だというのに、雨の中、水の郷では打ち上げ花火が上がっていた(車窓から見物)。頑張るねえ、未練だねえ、という感想しか漏らせなかったのだが。


一昨日出発して昨日本番、という全国規模の演奏会に、遥々埼玉まで出かけていた部活仲間の数人が、その長旅から帰還したようだ。無事帰還、という内容のメールを見ただけで、帰りの新幹線、最寄駅に着いた時、家の鍵を開ける瞬間、部屋の灯りのスイッチを入れた時、荷物を置いてとりあえずお茶を飲む時、その時の、「旅行が終わってしまった感」に全身が、一気に襲われる。何だか切なくて、苦く、気だるい感覚。また旅行がしたくなる予感。
殊に、夏の終りの旅行は、帰ってきた時に一層夏の終りと秋の気配をまざまざと感じ取れてしまうので、一等切ない。たまらない。

その例の感覚の所為で、旅は良くもあり、苦い。

(・・・月末ノ合宿ニ一週間ナンテ行ッテイル暇ガアッタラ、勉強ト秋ニムケタ心ノ準備ガシタイゾ!)

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曲。kyoku.

音楽のまとまりとしての曲、はなぜ「曲がる」「曲芸」「曲がり者」などのように使われる「曲」と同じ漢字で表されているのか、気になったので調べたところ、「曲」という漢字は、木を曲げてつくった器を象形し、細かい変化のあるもの、という意味も含まれるそうだ。が、他の「曲がる」というイメージの中では、浮きすぎているような気がするのだが。どうして、細かい変化、というイメージが出てくるのだろう。果たして、「曲」には何があるのか、「曲」とは何か、もう少し、思考を以後煮詰めておこう。

ちなみに、演奏会等が催される場所、「ホール」は、もとは「共有物」という意味なのだそうだ。(holdという英語、に受け継がれている?)音楽は共有物。

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もうすっかり残暑の気配。
残暑、といえば、手紙を書こうと思う。いろんな人に。
手紙。ただのひらひらした紙が、すっと或る意味を持ち、あるべき人の手に収まるイメージを得る。一瞬でも私が手に取った唯の紙が、その人の手に収まって、その人がそこから見出した新たな意味や、その人の息吹を吸って、立派な「手紙」に変わってくれるといいのだが。