多忙と言っていいのか.

「最近日記を書いていない」と思っていて、
今カレンダーを見たら一週間空いていた…光陰矢の如し。


週末は馬鹿程楽器を弾いたり、
阿呆な時間に研究室で論文を練ったり、
睡眠欠如の間抜け面を引っさげて(早く寝ればいいのに)
酒を呷って意識を彼方に投げたり、していた。
いつになったら、真っ当な生活を送れるのだろうか。


少なくとも、論文を提出するまで真っ当はやって来ないはずだ。

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出演する演奏会が近いので、
知人にチケットを発送せねばならない。
久々に手紙等、したためてみようか。
手紙を書くとき、というのは、
たった一人の相手の事を一心に考える事が出来る、
貴重な機会のように思う。
その機会の良し悪しは、相手と気分、状況によって異なるが、
相手が読み易いように、と考えての一筆、
自分以外の事を考えるその時間、というのは、
日常の中でも特別であろう。


明日、顔見知りの方のお店「お手紙カフェ」に行って
何通かの手紙を書こうと思っている。
カフェや喫茶店で長居をすることは、
たとえその店の常連であっても、私は未だ出来ない性質であるが
「お手紙カフェ」と銘打っているのだから、ここでは
長居しても良いだろう。
なんせ、私の書く手紙はやたら長いので、
時間がかかるのだ。
…3,4通書いた後、何時になっているか、
時計を見るのが恐ろしい。

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「メランコリー」というある種の「病」が、
死を思う(想う)所為の「病」である事を、
今日授業で知った。
私が死にそうに茫然とし、無気力ともつかない
謎の「黒い混沌」に冒される時というのは、
どうやら「鬱」というらしい。
「メランコリー」も一種の「鬱」だという事に
今までしてきたが、思い直す。
「メランコリー」は、「死という混沌」に落ち、
「鬱」は、何だか分からない「黒い混沌」に落ちていく「病」
なのではないか。「鬱」は日本的定義なのかしらん。
日本人が主になるのは、「鬱」であろう。
死を、「美」であったり「究極」と捉える日本人には
「メランコリー」など、余り存在しないように思える。


…鬱である。非常に鬱鬱としている。
私は鬱になると、途端に
座り込んで泣きじゃくりたくなるか、全身の力が失せる為
目を見開いたまま何処かで「停止」する。
鬱だからといって、
日常生活まで停止させるわけには行かないので、
大抵、重圧なオーラが漂う事は避けようがないにしろ、
なるべく明るく装いながら、
他人に迷惑をかけないように過ごしている。


鬱、と思いきや、
自己憐憫か被害妄想かしようもない妄想である場合も
あるので、注意が必要だ。
そんな馬鹿馬鹿しい思考に費やす時間と気力があるならば、
さっさとやけ食いしてフテ寝してしまうべきだから。


怖いのは、
何が原因で鬱なのか、分からない時である。
どうせ馬鹿馬鹿しい原因に違いないと分かっていながらも、
死にたくなる程深刻に、
この身をずたずたに切り裂き傷つけ、
自分の鮮血を自分で自分に浴びせてやりたいくらい、
躰がきしみ、痛むのだ。
毒にじくじくと侵食され、
臓腑が溶解しながら腐っていく。

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言語と文学が、非常に人間臭いものである事を
痛く最近実感している。
それらとどう付き合っていくかどうか、が本の虫としては
課題である。

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明日も頑張ろう。