小1時間問い詰めたい.

今年の指導教員は外国人、という本当に前代未聞の事態に居る、と先日も書いた(教育実習の時もそうだったが、他のひとはどうという事が無い状況に収まるにも関わらず、なぜか私に限って「試練」であるとしか云い様の無い事態に直面させられる様、運命づけられているらしい)。英語を専攻している限り、論文は英語で書けという指定がある為、勉学の面ではとても有り難いのであるが、日常の事を考えると、まず円滑なコミュニケーションから指導されるべき状態なのだ、私の英語は。私は英語が喋れない。相手から云われている事は何となく理解出来るものの、私の頭からはほんの欠片も英語など出てこない。どうするのだろうか。 そんな心配をよそに、先生は日本語がお上手で、漢字の読み書きもご堪能(履修届けを普通に音読しておられた・・・「キョウイクカテイロン・・・キョウイクホウホウロン・・・」)、何だか非常に悔しい。「私は英語が出来ないけれど、貴方は日本語が出来ないので、おあいこですね」と、大抵英語が出来る事で鼻を高くしている外国人には云えるのだが、相手がどちらも完璧に出来るとなると、私は単に非常に無学な人に堕ちる。現実なので、私が精進すればよい話だけれども。
しかし、日本語が出来るならなぜ日本語を話してくれないのか。当然私の為を思って下さってだろうけれども、大事な用や相談事の時は英語を聞き漏らしている場合では無いのだ。・・・本気で小1時間問い詰めたい。感情的に。むしろ泣き落としたい、頼みますと懇願したい。先生の研究室に入るたび、私は劣等感の塊になる。

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講義の中で、「孫にも遺書」と聴き取り「はて?そんな諺があったものか・・・何の事だったやら」と不思議な顔をしていたところ、数秒後に「馬子にも衣装」の事だと気がつく。「衣装」を「遺書」と聞き間違えていたらしい。「孫にも遺書」・・・自分が遺書を書くついでに、孫にも遺書を書くように忠言する事(人間何時死ぬか分からない為。碌でもない祖父母だ)・・・或いは孫への待遇についても遺書で触れるようにという事(孫にも恩を感じろ)・・・か。あまりネタとしては面白くない聞き間違えであった。

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読まねばならない英文が山積みの所為で、逆にやる気を削がれる。が、着手しなければ一向に片付かない。学部一、二回生の必須英語か、卒論作業を思い出す。暫くこんな苦労は無いだろうと思っていたに。分け入っても分け入っても青い山種田山頭火)という句を思い出す。まさにそんな気持ちで、読んでも読んでも黒い列が、延々と後に控えている。さながらエンドレスに続く悪夢の様だ。
この予習と講義が済めば、私にとっては連休になる。日記を記していたらば、種田山頭火という、私が好きな俳人の一人の作品を久々に幾ばくか読みたくなってきた為、同時代の俳人にも当たりつつ、この連休は俳句と短歌を触れてみたい。現代短歌の黒瀬珂瀾氏の本とも、最近ご無沙汰だと気づき、棚から引っ張り出したくなるも、今それをする事は立派な現実逃避になるので、何とか止まる(しかも氏の短歌を読み始めたらなかなか止まらない)。
さて・・・予習ぅ・・・