七転八起.

先日云われた言葉が腑に落ちず、朝から心の中は愚痴で一杯だった。
それでも何とか歩き(村上春樹流に云うと「うまくステップを踏んで踊る」)、ひとに会い、母と話し、想い、笑い、コーヒーを飲み、草木に触れ、頁を捲り、楽器を弾く。
そうすると、愚痴はひとまず昇華されていった。「他人と自分」についての持論をここ腑三日振り翳した事は、面接でうまく話せなかった事、自分でもはっきりさせていなかった点を面接官に指摘された事、通過通知が来ない事に対する、単なる苛立ちによる愚痴だったのではないか、と恥ずかしくなる。把握していたつもりよりも、自分はずっと頑固らしい事が分かった。
まずは冷静になろう。乱れたステップを立て直そう。

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他人の為、自分の為、どちらだ、という考え事は円循環し、時折涙腺を緩ませた。ひとに会う約束をしていたが、どんな顔をして会えば良いのか、どんな顔をして会ってしまうのか分からず、調子が悪いと云って会わない事にするかどうか、数時間寝床で悩む。好きなひとについて、自分が好かれたいだけで近くに居るのだ、という事は真実であるという結論が出たとすれば、きっと私は絶望する。
動き出さねばならない、それが生きる事、というモットーを思い出して、結局寝台から降りて支度をし、出掛ける。
実際のところは、ひとに会えば分かった。好きなひと人に接する時、嫌われたらどうしよう、とか、好かれたい、という事は思わないみたいだ。近くに居たい、だから居る。(もし「離れろ、不快だ」と云われたらば、そうするだろう。)
他人の為、自分の為、どちらかひとつ、或いはどちら寄り、という事を、無理矢理考える必要はなくて、融合させる事が一番楽で、気分が良いのだろう、という結論に達した。
後は、仕事上ではどうか、という辺りを煮詰める。

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小学校の書道の時間に、好きな四文字熟語を毛筆で仕上げてみよう、という時は決まって、「七転八起」と書いた。「よく転ぶし、ドジなあんたにぴったりよ」と云って母が教えてくれた様に記憶している。(比喩的に「よく転」びもするが、事実、膝小僧の生傷が絶えなかった程、道ではよく転んだ。内股歩きの所為だろうか)その頃も、今も、私にぴったりの言葉だと思う。 
お家が書道教室の同級生は、「一期一会」という言葉を書いてきた(「いっきいっかいぢゃないんだよ」)。当時の私は、「苺一円」みたいで妙な響きの言葉だな、と呟いた。

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これ美味しいんだよ、と薦めたものをひとが口にして、うん(時にうんうん)と無言で頷くと安心する。好みについて、違ってもいいが、一緒だと嬉しい。見ているものも、違っても楽しいが、一緒だとどきどきする。
果汁100%の炭酸入りジュース、タイザー(アップル、グレープ白・赤)を薦めると、無言で「美味しい」認可が下りた。

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今日の読書:『漱石の孫 (新潮文庫)