道楽の夢.

金曜日に毎度、人間観察対象になっていただいている先生(以下Mr.Fridayと呼ぶ事にする)が夢にご登場された。私が何か(忘却)を見て急に切なく哀しくなり、ぼろぼろ泣いた。近くにいたMr.Fridayをふと見やると、彼も同じ何かを見てかぼろぼろ泣いている。先生…と泣きつくと、「俺もそれどころじゃない。」と叱られたが、泣きながら慰めて下さった。夢診断によると、先生の云った事が自分へのヒントになる、と書かれているが、肝心の先生の科白はよく覚えていない。亡くなった身内や家族が夢に出てきた時も、何かアドヴァイスをくれた様な事は覚えているが、同様に、そのアドヴァイス自体は大抵忘却してしまう。獏をもう少し躾けねばなるまい。美味しいからといって食べ過ぎぬ様に。

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人を好きになる事や信じる事について考えてきた事を、夜中つらつらと書いていたら、途方も無く長くなった。そしてやはり夜に書いたものを翌日見ると恥ずかしく思うもので、いちいち書き置かなくとももう脳に刻まれているから大丈夫、という事にして、結局削除してしまった。短く要約出来ると良いのだけれども、理論をこねくり回す癖があるのか、どうも毎回長々と書いてしまう。まあ、抽象的な文を一つ二つ置いて自己満足するよりは、誤魔化さずにきちんと逐一書く方が、今の自分には訓練になるのだが。

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下妻物語」を観た。嶽本野ばら氏の、捻じ曲がっているところ、やけに素直で時に美しいところ、両方好きだ。受け入れる事が出来ない部分もあるけれども。洋服に関する議論には、はっとする点が多い。18世紀に生まれたかった、とよく登場人物に云わせているけれども、たとえ当時に生まれていたとしても恐らく、彼彼女は当時の文化には染まらずに(もしくは染まる事が出来ずに)、やはり過去への憧れの中で生きていくのだろうと思う。
自分では着ないが可愛いと思ったり、見ていると幸せになる服は多い。好きな洋服に似合う子になるように頑張る、という言葉が、氏の作品にはたびたび出てくる。洋服は先生、と映画の中でロリータちゃんが云っていた。今着たい服はどんな服だろう。 着道楽は就職が決まってから。
作品群中の、プロトタイプ的御伽噺の語り「〜なのです。」調には、すっかり慣れ親しんでしまっている。

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尊敬する文筆家、本業は書店経営者の松浦弥太郎氏が、雑誌『コヨーテ』の最新号に、ロサンゼルスについて紀行文を寄せている。氏の一ファンとして読まねばと思うが、千円という高価な雑誌にはなかなか手を出せないでいる。数日分食費を切り詰めて購入するか。またおにぎりでも拵えよう。氏の本は、雨宿りをする軒先の様な存在になった。

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「定食」「おうちごはん」ランチ(定食ランチと定食は違うと思う)が流行だが、おうちに帰ればおうちごはんそのものが出てくるので、外でわざわざお金を払って食べる必要はない。なんと仕合せな事か。しかし今日は気に入りの喫茶店に久々に贅沢をしに行った為、折角だから看板メニューの「今日のごはん」(一日限定五食)をいただく。やはり、おうちごはんをおうちで食べる事が出来る仕合せに慣れていると、何の感慨もなかった。後ろめたい気持ちの所為で、美味しさが半減した。それでも美味しかったが。おうちごはんはおうちで食べよう、と心に決めた。
某国立大近くには、ガイドブックや雑誌の喫茶店特集には必ず載る、或る有名な伝統的喫茶店があるが、有名ではないが余程名店だと思っている喫茶店が程近くにある。その店のハンバーグ定食を超える定食又は「定食ランチ」に、未だ出会わない。ハンバーグは勿論、付け合せのポテトサラダが本当に美味しい。ついでに、価格もおいしい。また、店の雰囲気が食事を味付けしている、という気も大いにする。硝子戸の向こうの庭を見ながら食後の珈琲(これがまた美味しい)をいただくと、至福を感じる。といっても、そんな贅沢は随分ご無沙汰だが。