それは単なる事故だった.

引退した部でパートを共にしていた後輩と同輩に久しぶりに会い、買い込んだケーキを食べながら談笑する。二人は見るからにしっかり味がしていそうなチーズケーキを、自分はこの夏二回目となるジュレを選んだ。どうも夏になると、ケーキを口に入れる事に抵抗を感じる。こうしてばてていくのだろうか。ジュレは大概、上の果物とゼラチンが絡んだ部分と、下のムースの部分からなっていて、かき混ぜるのが美味しいのだろうが、透明の層と色のある層を混ぜてぐしゃぐしゃにしてしまうと、見た目が台無しになる為に、毎回欲求不満に陥る。
家庭や仕事や、人間関係について、悩む事は同じ年代で大体一致しているらしく、励ましたり励まされたりの、重みのある会合となった。

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我が大学付近は、幾らなんでもパン屋が多すぎる。数十メートルか百メートル間隔であるのではないかと思う。街中の人がそんなにパンを消費しているとも思えない、がまあ確かに美味しい。特に小さな店の、天然酵母無添加とやらが美味しい。店ごと持って帰りたい程居心地と匂いの良い店もある。
また新しく出来た小奇麗な店を眺めながら、この街は、鼠の急襲に遭ったら経済的大打撃だな、と有り得ない事を考えていた。店から続く階段をばたばたと駆け上がって行った、パン屋のかわいい子どもを思い浮かべたが、その妄想は即座に首を振ってかき消した。
鼠が増えれば猫も増えるという単純な法則があれば、嬉しい。

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岩波文庫・緑を読破したい気持ちになる。あらゆる先人に意見を求めたい。『柿の種 (岩波文庫)』を書写しようかと思う。

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黒猫とは一番仲良くしたいのに、今日も振られてしまった。また挨拶を人に聞かれたが、やはり気にしない。あの濡れた様な漆黒に安心する。嗚呼、黒いなあ、と。
マガジンハウスの『relax』最新号で、眠る人と動物の写真を多く見かけた。眠る羊とパンダに惹かれてレヂに持って行きかけたが、これだけ眠たそうな人ばかり見ていると自分も寝てしまいそうなので、止した。
ドビュッシーの「牧神の午後の前奏曲」は夏の心地よい眠りを誘う曲、として紹介されていたので、やっぱり、と叫ぶ(こころの内で)。が、実際あの曲を夏の午後に聴くと、もわっと暑すぎて昼寝どころではなくなるのだが。マラルメの「牧神の午後」からインスピレーションを得て書かれた曲だそうだ。
マラルメを最初、マルラメだと読み間違い恥ずかしい思いをしたので、このフランス詩人の名前は忘れない。トネリコという木を、トリネコと読み、どんなネコかと思った、と爆笑を買った事を思い出す。時々トリネコと表記されているのを見かけるが、やはり誤植なのだろうか。

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以下、あまりに露骨で個人的過ぎる事を書く。自己憐憫に過ぎず時として自己嫌悪に陥る内容だとしても、たまには書かずには要られない。美化しているとかいかにも「悲劇的」である等とこれ以上追及すると崩壊する(実際崩壊した訳だが)。
起きがけのぼんやりした唇が、或る感触を思い出していた。今更なぜだろう、と暫くやはり茫然として、ばたっと枕に再び頭を落とす。そんな事もあろう記憶とは、と。これが「伏線」とはその時、微塵にも思わなかった。
深夜に近い辺り、用を思い出して、随分前に友人に或るURLを貼り付けて送って貰ったメールを探る為に、受信箱の奥をかき混ぜた。受信箱の最後の頁を開いた時、肝心の友人のメールではないメールに、はたと目が留まる。目だけでなくて、こころとやらも止まり、呼吸も止まった。律儀にも、残しておいたんだ。どれだけせんちめんたるな女の子だったのだろう。どれだけ信じていたのだろう。どれだけ好きだったのだろう。一目見れば呼吸も止まるその差出人の名前に、さっきまで矢印だった「意志」が白い手袋をはめた手に変わる。普段は警笛を鳴らそう胸の中の人が、こんな時に限って飼い主である愚者に従おうとする。誰も駄目だと云わない。だから開けてしまった。
電話ではまたまごつくからメェルで、という主旨のものが一通、勘違いだったのならさっさと関係を解消しませんか、という内容を確か、教育実習に行く前日に送った覚えがあるが、その返信、つまり実質上の破局を知らせる一通。残っているのはそれだけではない点に、飽きれた。どれだけひげきにみをそめたかったのだろう。添付ファイルにしてしっかりと、その人の冷たい雨の様な過去に関するメールまで残っている。それに関しては、最後まで読めなかった。痛すぎて。という理由もあるが、すでに十分知っている、何度も何度も読み返して、四分の一日(つまり六時間)かけて返信したのだから。
もう最後までそのメールは読む事が出来ないが、何度読んだところで、「ありがとう」という文字はひとつも見つからない。「申し訳ない」「ごめんなさい」という文字の間にも。云いたいのはこっちなのに、自分しか見ていなくてごめんなさいと云いたいのはこっちなのに、いつもその言葉をとられていた、今も。今もメールは、ごめんなさい、という言葉を、私より先に投げかけてくる。
その人にとっては「事故」だった。出会い頭という偶然に目が眩んだ為の恋愛的「事故」だった。そしてもう現場検証は済んでいる。金田一さんと小林少年、ホームズを召喚出来たとしても「これは事故です。残念ですが」と云うに違いない程、「事故」らしい。そういうものだ。「事件」だったと、ぼんやりとくっつく感触を時々思い出して、そしてありがとうと云いたい、とぼやいているのは、この世界どこを探しても私たった一人だ。
かわいそうなあの人(わざわざこんな人にわざわざ勘違いしてしまって謝って)。かわいそうなわたし(自分が傷つくのが嫌だったばっかりに自分の事しか考えられなくて)。ごめんあの人。ありがとうって云いたくないけど。
悔しい。
あんなメールを書ける人、あんな口調で喋る人、あんな風に考える人、あんな風にいなくなった人は、あの人だけという事が、悔しい。


こういう気持ちが、うらめしや、というやつなのかもしれない、と時々思う。
でももう涙は出ない。