潤みと戸惑い.

映画の日に、何の心配もなくふらりと映画を観に行くには、早めに当日券を買う事だ、と開場間近に映画館前のベンチに座る。すでに先客がいて、電話の画面を見つめている。『ああ、そうかね (日本エッセイスト・クラブ賞受賞)』を細切れに(ニ、三ページで落着する形式なので、待ち時間や時間潰しには丁度良い)、開場をまだかまだかと待つ落ち着かない気分で読み進める。いつも手際よく無駄のない運営をする従業員達も、開場前は意外な活気を見せ、内は賑やかだった。 無事に当日券(入場番号はNo.1)を購入し、数時間後に再び戻って入場してみると、その映画の最終日とあって、観客は十人程だった。拍子抜けしたものの、両側に人のいない、空いている劇場は好きだから良しとする。
序幕のところから泣きそうになったり、鳥肌の立つ映画がある。音楽や色と風景、そしてこれから始まるものへの大いなる期待が、内の何かを突き動かす。「薬指の標本」はまさにそれで、嗚呼困ったな、もう来てしまった(これでは先が思いやられる)、という具合だった。
薬指の標本」は、何もかもが美しくて官能的、そしてすべてが象徴的な映画に仕上がっていた。メルヒェンを思い出す。身近なもの程、含みが多いものだ。ずっと何かを吸い取りながら、人のそばで存在し続けてきたもの達、そう考えると、妖怪伝承にも納得がいく。
映像における無言のうちの表情、特に目に現れる感情は、文章における所謂「行間」に似ている。言葉と触れる人に依存しない在り方において、ものを書きたい。一方で、云うべき言葉は云うべき人に過不足なく云う事も忘れずに。

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講義を二本受ける予定の間に、誰もいない会館でPCを開けて作業をする。人のいる場所は、人について色々考えずにはいられない。協調性がない、と云われそうなので、帰りに研究室に寄って、近頃撮った写真の自慢しあいと雑談に加わる。楽しい事も、たまにはあって良い。
先輩から、猫の写真をいただいた。猫のまるっこい手足の先を眺めては、目尻の下がる思いを抱く。「猫足」がある限り、どんな猛獣でも可愛く愉快に見えてしまうのは、何だか可笑しい。
猫科の大型猛獣は猫を食べるのだろうか。猫は捕まるだろうか。美味くはなさそうだが。ハンバーグ入りの惣菜パンや、ハンバーガーを齧る時の、しゃくしゃく、という自分の咀嚼音を聞くと、肉食獣になった気分になる。

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Mr.Fridayは時々、ポケットからハンカチを取り出して、手を拭き、それをさっとポケットにしまって、最後にポケットをぽん、と叩く。手に汗を握る講義、でもなさそうなので、白墨の粉が気になるのか。或いはノートが汚れるのを避けているのか。 ・・・あ、そのノート、私も好きなのです。