「失われた時を求めて」状の何か.

uopus2007-11-06

仕事の後少し時間を取る事が出来る様になり、時々足を運ぶカフェがある。そこで出されるコーヒーはなかなか美味なのだが、コーヒーの存在が霞む程にそこのほうじ茶が美味の為、近頃は決まってほうじ茶を注文している。
何度か例のほうじ茶をいただいているうち、澄んだほうじ茶よりもぎろっとした色のほうじ茶の方が好きだ、と気づいた。
幼い頃、田舎の法事で出され、皆をして飲んだお茶の味を、ずっと舌で記憶している為か。その頃、ほうじ茶は法事の時に飲む、特別なお茶だと思っていた。普段家で飲むお茶といえば、スーパーで買ったお徳用玄米茶か緑茶だった所為で、あの少々苦いが香ばしいほうじ(焙じ)茶は、特別な行事用のお茶だと思い込んだ。長じてもしばらくは、ほうじ茶はひょっとして「法事茶」と当てられるのではないか、と信じ込んでいたのだが、ワープロの変換機能によりあっさりとその期待は敗れたのだった。
兎も角、ほうじ茶は今でも特別な存在なので、メニューに、ほうじ茶、とあるとコーヒーにお菓子を止めにしてまでほうじ茶に「走る」。しかし、残念な事にこの店のほうじ茶はあっさりと水水しく、舌の記憶にあまり添わなかった為に、次回からの注文品目はコーヒーに戻す予定である。

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お茶屋の店頭で歩く速度が落ちない日はない。
甘く又香ばしい、この世のものとは思えないあの香に、引き止められてしまう。良質な茶を淹れた時、急須の蓋の裏っかわから鼻先を離せない様に。