悪夢日和.

あれよあれよという間に時既に皐月、飛び石連休も気づけば終わっていた。
連休最後の日については、特別予定を入れずにおり、読書と楽器の練習が出来ればそれで良い、と前夜、布団の中で考えていた。
いざ目覚めようとする直前に、溜まりに溜まっていたらしい悪夢に襲われる。
職場で痛めつけられる夢やら、過去「片思い」に終わった人に今更想いを打ち明ける夢やら、後は既に忘却の彼方へと去ってしまったが、兎も角、多方向から攻められた。もうこれ以上失うものはないだろう、とぐったりしたところで、逆に爽快感が生まれたのは、内心に今まで溜め込んできた澱が、夢となって一度に流れ出ていったからだろうか。
諸々への不安が現実になる事を、恐れているらしい。

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折角身軽になったのだから、と一駅先の書店まで少しの間出掛ける事にした。珍しく雲ひとつない青いそらを見上げて、紫外線の心配をした(人間は何時から、こんな趣一つない生き物になったのだろうか)。やはり雨の方が好きだ。その露は、すべての紙を湿らせ、翼の錘となろうとも。青いそらは、少々お節介なのである。そらが青くあると、何か特別頑張らねばならない気にさせられるので。例えば掃除洗濯、家族サービス、憎きレヂャー。
暢気なかたちの雲がいつつ、むっつ浮かんでいたり、雲間から細く漏れる光が地上に射している様を見ると、えいえいやっとな、と、掃除なり自室の風通しなりにすすんで取り組む気にもなるものだが。
どうも快晴は、押し付けがましく、又、恩着せがましくて、好かない。

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書店で尾崎翠の文庫版集成を買ってみたが、読み始めるのは随分先になりそうである。ここのところ、花森康治『暮しの眼鏡 (中公文庫)』を読み進めている。相変わらず、随筆ばかり増えていく。
ブローティガン芝生の復讐 (新潮文庫)』が文庫化していたので、絶版になって書店から消える前に買っておく。これもやはり、着手は先延ばしになろう。
数日前、母校の広報に目を通していると、生徒以上に授業熱心であり、文学研究の楽しさを教えてくれた准教授の記事を見つけて、面白く拝読した。熱血指導ぶりは更にエスカレートしている様で、今現在彼が受持っている生徒を、今更ながらほんの少しだけ羨ましく思った。アメリカ文学を通して人間の有り様を熱く語る彼を思い出して、久々に海外文学にも手を出したくなった。幸いにして、専攻柄、傑作と呼ばれる欧米文学は我が書棚に粗方揃っている。

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教師をふと思い出し、お元気だろうか、と慮った時、もっと良い生徒だったら良かった、と後悔する。季節の手紙や感謝の一筆を送りたくとも、悪い生徒(主に、成績が芳しくない、という意味)であったであろう自分からは、申し訳なくて送る事が出来ないからだ。