マドレーヌの様に泣きたい.

さめざめと泣きたい(pleurer comme une madeleine)。さめざめと泣く為の時間と空間が欲しい。
扉を開けたら、四畳半程の森が広がっていて、小椅子が一脚だけ、ぽつん、と置いてある「泣き部屋」があったら好いのに。(理想は「天空の城ラピュタ」の、建物の中にある森)

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継続は力なり、とはよく云ったもので、仕事を離れたところで久しぶりに文章を書くと、まともに書く事が出来ない。読み返してみると、物凄くぎこちなくて、途中でその行為を止めたくなる程である。折角良い本が自室にたっぷりあるのだから、読書量を増やす事と、書き写しをする事で、「巻き返し」を図ろうかしらん、と考えている。
練習はよっぽどの天才でもない限り必要、量より質と継続が物を云う、という事は痛い位知っている。これで食っていく訳でもないし、と思えば諦めもつきそうなものだが、たとえ凡人でしかないと自覚していても、ちょっとやそっとで諦める事が出来ないのはきっと、よっぽど好きな事だからだろう。
やんなっちゃうなあ、と落ち込みながらも、気がつけば筆と紙、ピック(絃を弾く道具)と楽器を手にしている。好き、とか、嫌い、とかというレヴェルではなくなって久しい。食後はストレートの珈琲を飲む、洗顔の後は化粧水と乳液を付ける、洗濯物は皺を伸ばしてから干す、そういう日々の決まり事に似ている。
好きか嫌いか、と云えば、つまるところ、好きなのだけれども、勿論。

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個性的、と云われると、淋しくなる。個性的、という言葉の意味が、誰かの真似で満足出来ない(或いはしない)、という事だとすれば、個性的である事は、大抵楽しく、意外に楽で、ほんの時たま淋しい在り方である。個性は主張ではなくて、あくまで在り方だと思う。
多くの人に溶け込む楽しさも知るからこそ、淋しい、と感じる事もあるが、大抵の場合自分の好きな様に在るのは楽ちんなので、たまに淋しいのは仕方がないのだろう。