早くも6月

今日は、天気が良いわりには比較的涼しく、ボックスで遅い時間まで勉強して外に出てみると、寒いくらいの気候・・・気をつけねば、風邪を引きそう。

勉強といえば、近頃ぐぐっと集中する訓練中。もともと集中力はあるほうだ、と自負しているのだが、ボックス街や人の声が存分にするところでも何処でも集中が出来る、というわけではない。何処でも集中出来るようになりたい。90分の通常の授業では、100%集中して、完璧なノートが取れるのは1時間までで、終了30分前は、どうしてもそわそわしてしまう。大学最終学年になって、自分のしたい勉強や研究が出来るようになると途端に、勉強できること、知識をつけることの楽しさ、有り難味と時間の貴重さを思い知るに至り・・・
存分に集中して、丁寧に時間を過ごしたい。音楽が流れているところで勉強する場合、軽音部の音や、かけているCDの音楽はあまり気に障らないのに、人の話し声(音量関わらず)と吐息、金管楽器
妙に気に障り、集中を妨げる。敏感なのか鈍感なのか・・・とにかく、集中できるようになりたい。

どうしても.
自分の顔と身体を好きになれない。

いくら他人から褒められようが、慰められようが、好きになってもらおうが、本人はどうも好きになれない。努力すれば或いはちゃんと磨いてやれば、好きになれるのだろうか。この身が無ければ、とさえ思う。要らない。魂だけでいい、とさえ。そんな目で、哀れみの目で、見ないでくれ。判断を保留にしているmental部分の自分を引き出してくると、mentalも大して誇れる部分もなく、私の「殻」を見るな、中身も見るな、と云ってしまえば、一体何処を見せることが出来るのだ。いっそこの身ごと、消えてしまいたい(何ともご都合主義)。
この思いが、単に自堕落なら、手の打ちようがあるのだが。誰か、自堕落、と云ってくれ。

本日読了本.
アルチュール・ランボー『地獄の季節』、
岩波文庫小林秀雄訳) 読了。

読む時期を間違えた。これを読む、味わう、噛みしめるには、
時間と深い思考を必要とする。
多忙中の今は、駄目だった。が、今日はちょっと鬱なので、読めるかも。そんな本。

以前も書いた通り、こんな作品は、彼にしか生み出せるはずがない。こんなショッキングな印象を与える作品は、当時にとっては更にショッキングだったに違いない。低年齢で書かれた、という所為もあるのだろうか。他の円熟した詩人の作品では、感じたことのない風。才能は言わずもがなだが、つっぱってたから、こんな作品がかけたのかしらん。深みがあり味わい深い、というよりも表面上のショックの印象の方が強い。まさにショッキング。