感覚麻痺.

夏を終わらせる気にも、秋を迎える気にもならず、じゃあ私は何処にいるのか、と問うてみると、どこかの狭間か溝か崖の下らしき割れ目にいるような気分である。
浮遊しているとも言いがたく、着地しているとも言いがたい。

どうにかなって欲しいものだ・・・・嗚呼。

 
一日家にいて、部屋の窓を開放していると、道路と公園が近いもので、外の音がよく聞こえる。いっそ引きこもりたいのに、どうしても「外」が私の身体を浸透してゆく。引きこもれないなら、いっそ放浪したいのに、それも(実習準備と気力なしで)叶わない。

早く9月への一歩を踏み出さねば・・・

花に嵐のたとえ.
台風の中を帰途についた。夏の宵から晩の空気と風景が好きで、
人が少なく、電灯もあまり無く木ばかりで、物騒なのは了解済みなのだが、堤防を気に入って歩いて帰っている。(もともと天井川沿いの堤防の為、街が見渡せる高さにある。そらが近い。)

今日は湿気を含んだ強い風が、堤防にも流れていて、今日は一段と、桜の木がかおりを放っていた。(桜餅の・・・)(葉の茎にある蜜の腺から出ているのか)

夜かおる植物は、何だか艶っぽくてよい。それとも、夜は空気が清む為、昼間は隠れがちなかおりがかおるのか。
どちらでも良いけれど、堪らぬ魅力を感じた。

夜咲く花は、逝ったものが宿る、とか。

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助詞の使い分けは重要だ、と感じた。少なくとも、日本語においては、厳密さを要求したい。

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(追記:人生において転換点だったような気がする日のわりに、まともに綴っている自分が居る。)