制服さんの悪い癖.

昨日話題にした『檸檬』だが、実は「英語表現法」という授業で、この作品を素材にディスカッションをする事になって居、『檸檬』の英語版が配布され目を通す必要があった為に、一晩かけて和訳していたのだ。原文が日本語で、その英語翻訳版を日本語に翻訳する、しかも何度も原文を読んだ作品を、という作業はなかなか楽しく進んだ。自分が好きな部類の文章と内容が、どう英語に翻訳されているかをよく観察出来、またそこから自分の薄い文章力と貧弱な語彙を総動員しながら、その小説の雰囲気に添うような日本語で作文する訳であるからして、案外勉強になるのだ。そして、日本語になったと云えども、梶井基次郎の日本語には全く似つかない点が、情けないがまあ当たり前であるし、更に作家の偉大さを確認するに至る訳である。 同じ言語話者同士でさえ、互いを理解し合う事はむづかしいというに、全く異なる言語への翻訳や、「異文化理解」の難しさと云ったら・・・一晩かけてにたにたしながら英語を追っている作業なんぞ、御遊戯だ。
和訳出来たのは良いが、これから『檸檬』という話の要点を極々簡潔に示す作業をせねばならないのだが・・・こんな微妙に絶妙な話を、どう要約し結論をまとめよと云うのか。九割九分九厘、主観によってのみでしか仕上がらないと、予測する。困った・・・思えば、外国(例えば、派手で鮮明な話が好きな米)の文学作品で、この手の漠然さを備えたものはあるのだろうか。日本人の文学独特なのではないか、と疑ってみる。
がしかし、●年前高校の「現代文」で取り組んだように、この作品の構造分析等を紙面上で行ってみると、なかなか明解で非常に良く出来たつくりをしている事が判明する(名画であっても、カンバス上を美しく整った様に見せかける為に、何かしらバランスが考慮されている事と同様か)。作者が意図的に仕組んだのであっても、自然と天性の成せる技であっても、どちみち、文学とは奥深いものだ、という確信を覆す気にはならない。
ah, no more English.....

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一般論だが、美しい日本語遣いで書かれたテキストと睨めっこし、その上覚えたての文章を自分の文章に組み込んでみると、少しまともな日本語を書く事が出来た気になる。
しかし、近頃各文学賞を受賞している作家が、broken或いは口語に近い日本語を使用しているところを見たり、実際自分で読んでいると、古典を読んでいる時よりは勿論違和感は感じるが、必ずしも時代に逆らってまで丁寧な日本語で文を整える必要は、もはや無いのではないか、と感じる。要は大抵の読者が難なく読む事が出来、云わんとする事がきちんと伝わり、あわよくばひとをinspireすれば良い、のだろう。・・・整った日本語も口語体も両方出来るに越した事は無いけれども。

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大学院に進学した元部活仲間には、当然ながら学内やその周辺でしばしば遭遇する。元気である事を確認出来るし又寂しくなればすぐ会いに行ける事は、独り好きである一方極度の寂しがりやである私にとっては有りがたい。だが、何だか大学を卒業した気にならず、新生活のさっぱりした切り替えが未だやって来ないまま、今に至っている。今日も仲間のうちの二人に遭遇し、嬉しさと遭遇の小さな驚きでくすぐったくて、変な笑顔を作ってしまった。
そして近頃、恥ずかしかったり考え事をする時等に、アタマを掻く癖が出来てしまっているらしく、気がついたらかりかりやっている。髪の手入れと仕上げには余念が無い私は、掻いたところで「何か白いもの」を舞わせて他人を閉口させる事は無いと思われるが、毎回その仕草をやってしまってから、金田一の様だと思う(わざと、では無い)。以前は、考え事をする時に顎の下に手を添えていたものだが・・・いずれにしろ、色気が無いし女性らしからぬこの癖を、早く気遣って撤廃したい。やれやれ・・・(ぽりぽりかりかり・・・・)

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先日、「楽器(この会話ではギター)が上手い、ってどういうことなん?」と愚弟に訊かれた。この奥深い質問に対する回答に窮してしまい、その時は「素人目には、指が速く動くとか、指遣いが巧みとか、でしか判断つかへんなあ」とテキトォに言葉を吐いてしまったが、昨日今日などアルハンブラ宮殿の思い出?スペイン・ギター名曲集でジョン・ウィリアムスのギターを聴いていると、前述の「指」云々よりも(むしろ誰でも動かせるようになって当たり前の様な)やはり「音の良さ」だと確信する(正解かどうかは知らないが)。素人でもその道に詳しく耳が肥えたひとでもどんなひとに対しても、音を聴かせて「ああ、良い音」と感じさせる事が出来る演奏者は、「上手い」と云っても良いのではないだろうか。所詮「上手い」等は相対評価でしかない為、上手いだの上手くないだの、自分の耳の肥え度合いを自慢したところで、それは不毛な議論であろう。自分が「良い」と思えば、それで良いのではないか、と音楽素人の私は思うのだが、さてどうだろう。