la febbre o passione.

本日は所属楽団の練習日、また新たに考えた事も有るが、今回は自分の音ばかりに注意が行っていた為、あまり楽しめなかった。が、ヴェルディ「椿姫」(中野二郎編曲、椿姫幻想曲)は、自分でもなかなかの難易度のパッセージを弾きつつ、他のパートの音や音階を聴く事がとても楽しい曲で、自主練習と仕上がりが楽しみな一曲だ。折角大勢で曲をつくっていく機会があるのだから、毎回の練習に何かしら、やり甲斐と熱情を置いていたい。誰かと接していられる時間はとても貴重で、その場で構成されたその空気のなかに放たれるその音というものは、もう決して次の瞬間以降現われる事は無いのだから。

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練習とその疲労で、他の思考がままならない。
減量と健康の為、夕飯の白米の量を制限している。まま良い調子である。どうせ私は、適当なものを一定量摂れば、それで満足してしまう。腹八分目以下の感触が快感である。十分目まで摂ると、罪悪感と脂肪の塊になる。せめて吐き出せれば良いものを(それは結構体力が要る)。

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「方向」を共有して居たいよ。

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ベートーヴェンの生涯 (岩波文庫)は、読んでいて燃える。私のベートーヴェンとその作品群への愛が増した。 他にも、音楽や音楽の題材になっている書籍を読破しておかねば、と思う。それらの安価購入を、来月G.W.中の古本市で狙っている。音楽好きの楽器弾きにとって、先人や今を生きる音楽家の見解や足跡は、自分の音楽における血肉の構成要素に大いに成り得る。非常に良い収穫(善し悪しを判断するところは自分だが)がある。
日本語の「情熱」と「熱情」では、辞書を見ても大して意味の上で差異が認められない。燃え上がる激しい感情、という事にどちらもされている。しかし実際は何となく、「熱情」の方が「全身全霊を傾けた内なる激しさ」というニュアンスを持っている様に感じる。
例えば(それは極めて極端で凡庸だが)、「情熱的なアプロ・・・(ry」というフレーズはまま有りがちだが、「熱情を込めてア・・・(ry」と云うと、恰も押し倒されんばかりの勢いが加わる(違)。
よって、気も狂わんばかりの熱さである、ベートーヴェンピアノソナタソナタは日本語で「奏鳴曲」と書かれるらしい)第23番には、「熱情」(原語: Appassionata 作曲家自身が名づけた訳では無いが)という翻訳語がやはりフィットしている。

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やはり「顔色」を窺ってくれているのね・・・何でもない顔して。動物だね。