「生」の奔流.

まだ事故の衝撃で茫としている・・・9・11事件はあまりに衝撃過ぎた事とただただテロリストを憎むばかりで唖然としていたが、今回は本当に身近でしかも事故であり、不運を呪わしく思い哀しくなるばかりだ。一刻も早く、巻き添えになったひと全員が、あるべき場所へと帰っていかれる事を祈っている。そして今も必死に救出活動を続けている作業員や医療関係者の皆様に、労いと応援の念を送る。
事故が怖くて電車に乗らない、という訳にもいかず、今日もいつも通りJRで通学する。帰りは一両目に乗り、周辺を見回して「今脱線したらどうなるだろう」と想像してみたらば、ぞっとし、くらくらした。

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特色の濃さと、知識と知性が有る事を余裕としている制圧的口ぶりの教師に、半ば疲労気味である。生徒と接する事もひとつの人間関係として、もう少しマシな口のきき方が出来ないのだろうか。ひととしてはあまり尊敬出来ない。癪にさわるような過度の気遣いをされるよりは、率直に云いつけられた方が良いには違いない、と擦れながらも何とか気分良くやっていくか。

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電車の中で、女子高校生の群れが私の視線の先に居たので、暫く観察していた。いやはや、元気である。彼女達は確かに生きている。何というか、迸る「生」の光の奔流が見える。何かの「張り」が違うとか「肌理」が違うとか、という視点で述べても良いのだが(プリーツがフィットするそのお尻、丈はどうでも良いがスカートから覗く御脚、ざっくばらんで青臭い会話 ex.「彼氏と何処までいったんさ?」 が素敵等、少々変態染みている視点含む)、私の筆力では品良く仕上がらないからして、脇に置いておく。 彼女達は、私のように萎びていず、生きる力に満ち溢れている。そして挫折を未だ知らず、未来への可能性は無限に四方に広がる・・・否、そういう事を未だ忘れていないのだ。私などは忘れてしまっているのだろう。あらゆる点において、彼女達は澄んでいる。良い・・・。
帰宅途中、高校生の恋人同士らしい男女二人を見かけた。夜の桜並木道の花見用電燈を見ながら、
めのこ:「まだ花見やってるんだ」 / をのこ:「時間あるんやったら、また見てく?」(二回目らしいけれど、見たそう) / 「・・・葉っぱ見やね」(かわす) / 「どうする、見ようか」(もう一回誘う) / 「えー・・・時間大丈夫?」(遠慮がち) / 「こっちは全然あるよ。そっちさえ良ければ・・・」(頑張って推す)
というやりとりの後、二人して並木道に自転車を走らせる。何だか微笑ましかった。夜道を二人で仲良く歩きながら、恋人らしい展開に持っていくのだろうか・・・良い。

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[少々露骨な箇所有り]
乙女、の何たるか、を度々考える。書物を読んでいると「処女」に「おとめ」というルビがふられていた事にヒントを得て、今日は考える。事は単純で、事実として「処女」であるかは置いておいて、「処女性」というイメージが「乙女」とは切り離せない事は確かだ。「操」を守ろうとする貞淑さ、恥じらい、独特の媚態、穢れ無き清純さ、加えて或る種の(点における)無知がある様に思う。
個人的には、乙女感覚を忘れずして女で居たい。

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昨日何とも無しに聴いた音楽が、今日は泣ける。今夜の空気は切ない。メッセンジャーはオフライン・・・その名に「手」を伸ばせば触れる事が出来るのに、肝心のその手は伸びないまま、此処にしづかに横たわっている。