エヴァ対巨神兵.

昨夜の遅い帰宅(終電で帰る時は、親を迎えに呼び出さずタクシーで帰宅する事にしているが)にお冠の母に叩き起こされ、ぼんやりとした朝を向かえ、とりあえずPCを開く。この「とりあえずPC」「とりあえずビール」等「とりあえず」習慣は非常にだらしない、何とかしたい。
「とりあえず音楽」は許容するとして(これを取ったら私は、水の無い水槽の魚であろうから)、ヘンデル「水上の音楽」(マリナー指揮、アカデミー室内管弦楽団 1971)をかける。バロックは重なりが美しいけれど、あまり集中して聴きすぎると音感の限界で目が飛び出そうになる(想像)。 その後シューマン:ピアノ協奏曲/他を聴いて燃える(萌える)。

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今日のタイトルは御宅的だ。
楽器を弾きたい・・・そうは云っても、弾こうにも場所が無いのが、学校のクラブを引退した者の悩みである。連休中等時間はあれど、折角休んでいる家族に対する騒音と迷惑行為になりかねない。嗚呼、防音室か気軽に使える音楽練習用施設が欲しい・・・
なぜ上手く行かないのか、悩み続けるだけで時間は過ぎていってしまう。ごりごりと弾き込む事は得意なのだが、あれでもないこれでもない、と考えていてあまり楽器を弾けない練習は苦しい。忍耐力と思考力でだけで何とかせねばならない。師匠もお分かりらしく、何とか耐えて妥協せずに短期間で頑張れ、とおっしゃっていた。

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水曜日の22時から、東京FMを毎週楽しみにしている。山崎まさよしアジカン、という大好きなひと達が二本立て、という番組は大いに癒しに成る。仕合せ過ぎる。

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初対面やお愛想程度の付き合いにおいて、相手が言葉を失くしている時、自分の「抽斗」を必死で引っ掻き回して話題を提供し、うまくそのひとが快く話をしてくれる話題に当たった時、嬉しくなる。小さな付き合いでも、相手と何とか気分良く時間を共有出来れば、といつも考え願っている。私に出来る事は何か。私に出来る何か。

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某珈琲チェーンの豆にそろそろ飽きて、スーパーで小川珈琲の豆を購入してみた。予想していたよりも美味しく、200gは何とか消費出来そうである。老舗の珈琲を呑んでいくと、海外珈琲チェーンの味の薄っぺらさが分かる。小川さんに止まらず、他のものも色々試して、自分の好みの豆を見つけたい。
私はミルを持っていないので、挽いてあるものしか購入出来ないのだが、そうすると購入する際鮮度が気になる。売れずに長い間店に置き去りにされているものは、その分味が落ちてしまっている。豆に最初のお湯を少々注いだ時、大抵泡の小山が出来、豆が呼吸するのだが、今日購入したものは、何だかその立ち上がりの元気が無い。豆の種類なのかもしれないが・・・ひょっとして古いのではないだろうか。

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もう何も考えたくなくなって、無理やり意識を飛ばしてしまう事で鬱を断絶させる、という行為が増えてきた。書物を読む事等は普通にするが、ひとの声を取り入れる為の気力が無い。人間の屑、全くの子どもだ・・・けれどどうしようもない。 
どうしようもない時は、松浦弥太郎氏の本を手に取る。大切な想いが、大切に綴られている。この方の文章に触れると、元気になれる訳ではないが、もう一度地から起き上がる気力が湧くらしい。
・・・しかし、本当にどうしようも無く萎えている時というのは、本を手に取る気力すら無い。屑だ。

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こんな時は、雨の音を聴きたくなる。
雨の匂いを嗅ぎたくなる。