オラに元気を分けてくれ.

楽器が現実逃避の為の道具、と認識してきたのだが、何だか違う気がする。楽器を弾く事ですっと何か、角や棘が取れたり、「楽器があるから私は生きていける」と今現在も思ってはいるが、「現実逃避」と思って楽器を弾いても、何もプラスにならない。逃避だと逃避している音しか、鬱だと鬱な音しか、やる気が無いとやる気の無い音しか出ない事が分かった。私にとって楽器は、不思議だけれど重要で貴重な存在だと、つくづく思うに至る。

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前日に自分で決定した予定を、翌朝とっとと覆してしまう事がよくある。昨夜「明日は映画を観に行く」と意気込んでいたのだが、翌朝覚醒してみるとそんな気分はなぜかすっ飛んでいた。映画料金への見解(高いか安いか、払えるか払えないか)まで変わっていて、いかに私が気分屋であるかについて、少し自己への認識を改める気になった。

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涼しげで大人っぽい洋服を探しにいったが、何処でも売っているような服については、買おうか止めようか数分迷っていたくせに、悩みついでに少し個性のある店に入ってみたらば、自分好みで「これは他の店には無い」と分かった途端、その店で気になった服買う決心がついた。…お蔭で、ちっとも涼しそうな服はないものを買ってしまったが。
買え買え、と急き立てられるような店よりも、店の内装や音楽が落ち着いていて、店員が「どれも良い服なので、ゆっくりいろいろ見て行って下さい」と云わんばかりの雰囲気の方が、私の購入意欲はそそられる。

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モード系服飾雑誌をゆっくり眺めて過ごした。パリ・コレクションの模様や、新進気鋭アーティストの作品、ブランドの紹介など載っている。どれもこれも「手が込んでいる」というレヴェルを超越し、よく云われる様に「ひとつの芸術作品」に感ぜられ、見ているととても楽しいしお腹がいっぱいになる。
古着と、現在新しく作られた懐古趣味の服の、具体的な違いが少し分かった気がする。古着は過去に作られ、そして一旦はオンタイムの役割を終えて時間を止められたものだ。それは完全に過去のものである。一方、懐古趣味の新品は、デザイナーが過去(の良し悪し)に主眼と愛着心を置いて創作したもので、それは過去より「過去めいている」かもしれないが、「過去そのもの」ではないし、常にそのパワーは現在と服を着る者の未来へと向いている。デザイナー達による服にパワーが溢れているのは、その所為だろう。 古着と新品、どちらにも魅力はある。
私は、というと、パワフルな作り手によるパワフルな服の強さに強い魅力を感じる。「現代なんててんで駄目、過去は素晴しかった」と云い切り創作するデザイナーが生きているのは、紛れもなく現代で、それでももしくはそれだから、彼彼女らは力強く行き、自分の過去への思いと失われてしまった過去を、現代に引っ張り出してきている。そのスタイルに私は惹かれるのだ。失われた過去そのものである古着を、私が今好んで着たとしたら、身体ごと過去に持っていかれてしまう気がする。なかなか現在を向く気力が出ない、失われたもの、とうに動きを失ってしまったものを、掌の上でいつまでも転がしている状態の私は、何とかしがみついてでも現在に止まらねば、生きていけないのだ。パワーが欲しい。
しかし、手の込み具合と質に価格は当たり前に比例している。手を出そうと思えば、どんな仕事でどれくらい稼げば良いのだろうか…いやはや。
日本社会も二極分化…