神の沈黙.

茶店、カフェ等で間違って、ふかふかのクッションが置かれていて、座り心地が凄まじく良いソファに一旦腰掛けてしまうと、本当に時間を忘れる。危険である。
古都の珈琲の平均価格は350円の様だ。今風のカフェなら400円、ケーキ屋や専門店だと600円以上に跳ね上がるので驚く。300円少々でも、美味しいところは十分美味しい。

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眼鏡を掛けないと目を凝らす必要があり、目が疲労する。眼鏡を掛けると、時間が経つにつれなぜだか疲労し、なぜだか気分が悪くなる。見え過ぎる世界も好きでない。そうすると、高価だけれども疲労しないくらい着け心地の良い眼鏡を装着するか、コンタクトレンズにするか、二つに一つだろうか。以前は眼鏡が無くとも生活するのに困らなかったはずだが、視力が下がってしまい、それをフォローするにはかなり無駄な体力(対象にぐっと近づく動作、目を凝らす動作、直前に迫るまで見えていなかったものからの回避等)がどうも近頃鬱陶しくやたら疲労する。さようなら、素顔の私。(コンタクトレンズは今のところ、無精で面倒臭がりの私には扱いにくい代物である)
私が今一番欲しいものは、自信でも、美しい容姿でも、巧く働く頭でも、機敏な身体でも、気の良い友人でも、やさしい恋人でもなく、高品質の眼鏡(とお金)である。私に眼鏡を下さい。…バイトをしよう。

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神は常に黙している。

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晴れない気分時の散歩コースを行く。体調も何となくはっきりしない時このコースを行くと、結核を患い毎日放浪するだけの生活を送っていた昭和の文人を想う。散歩すると必ず寄ってしまう書店で、ポーラ文化研究所の「is」という、休刊中の雑誌が新本セールで半額になっていたので、これは!とつい何冊か購入した(「のび・ちぢみの愉しみ」「無人」「<儚きもの>の図像学」「失われた書物」「<影>イリュージョン」特集を購入)。…また食費への割り当てが減った。

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御洒落を考えて服装を整える事も好きだが、シンプルな服と着こなしなのに凛として美しい人を見かけると、御洒落の何たるかを考えたくなる。「御洒落がしたい」と思い、あれこれ服を見て廻り、着まわし等を考えるが、そうしていると何だか、服に選ばれている気がし出すのだ。私は服にまで選ばれたいとは思わないし(人に選ばれる事は多少感慨が伴うので良いとして)、服を選びたい。何でもいい、という自由も、服の選択の一種だろうか。
「自分で選んだ事」の強固さが、凛とした美しさに繋がるのかもしれない。
もう少し胸を張って、毎朝選んだ服と仲良く、歩いてみよう。