アナタとアタシの間.

いよいよ、朝も夜も蒸す季節がやってきた。

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今日の日記の内容は、安易で安直過ぎるかもしれない。…

相性、について考える。
文学作品の講読後解釈についての議論を行う授業を受講している。「何でも良いので、気になる点を出してくれ」と云われ、指名された者が自由な意見や疑問点を出していく方式になっている。そこで私が、予めまとめておいた議題(あれこれ思いついたうちでも、議論しやすそうなものを選んで)を出すと、きまってその授業担当の教師は、私が出した議題を希釈し脇へ追いやる。一方、思いついてもまとまり難い上に理解され辛いだろう、と想定し私は出さなかった議題が、他の学生によって出されると、その教師の食つきが私の時とは違う。
授業中のこの現象は、単なる私の能力と説明力不足によるのだとして、毎回落ち込む一方何とか努力する事で解決出来よう。しかし、授業以外の場でもこの教師は、他の学生程私に対して真剣な様子を見せない。どうやら、どう話を展開させれば「ご自分が」楽しめるのか、私が相手だと分からない様で、軽く済まされている、と感じる事は少なくない。だからと云って、教師の食つきがよさそうな態度や議論に出る事も、他の生徒がする様には私はうまく出来ないらしい。また、その教師が自信を持って語る持論も、私の腑には落ちない。
この教師と自分の間には、どうしようもない「すれ違い」と「相性の良くなさ」を感じる。
最初は、教師で目上の人であるから、私から歩み寄りきちんと対応せねばならない、と自分を励ましてきたが、肝心の大人・教育者が私に対して軽い態度を取り続けるならば、私だけ歩み寄ろうとしている事が馬鹿馬鹿しく感じられてきた。これはやはり、彼とは根本的に相性が悪いのだ。一人の人間対自分、といういつもの態度で以って、もう媚びずに自分は自分で行く。
私は、強固な人、大人、と感じられ、尊敬しかけた人が、実際歩み寄ってみると粗や隠れているもの、隠してはいるが「見つけて欲しい」と云わんばかりのものが見えると、途端に歩み寄る事を止めて、遠ざけたくなってしまう(よっぽど人間的に魅力を感じていたり、その人の事が好きだと、逆に近づくかもしれないが)。そこに見えているものが「人間らしさ」だとしても。
英米文学の教師は、そんな方が多い気がし、時に気分が悪くなる。文学作品そのもの(読み取られる事を待っている、望んでいる)の様な方、というのか。…と考えると、私はそもそも、英米文学とは相性が悪いのかもしれない。
世の中を渡っていく上で、身の回りを自分と相性が良いものだけで固める、という事は全く不可能であるのだから、相性の悪いものと付き合って、その付き合い方とあしらい方を早くから身につける、というのは、良い体験であろう、と思っている。

ちなみに、文学作品を読む、或いは研究するにしても、作家とその作風と自分の、相性の良し悪しは必ずある。深読みを要求する作家もいれば、書いたままが受け取られる事を望む作家もいる。独自の視点から見える美しさが支配する作品もあれば、文章や筋にある純粋な美しさを全面に押し出す作品もある。どんな類のものが自分と相性が良いのか、という見極めは人それぞれである事は云うまでもない。しかし、相性が良いと推定出来る作品ばかり読んでいる訳にもいかないのだ。偶然相性が悪い作品に当たる場合(相性が悪い、と途中で気づく場合も含む)だってある。


しかし嗚呼…疲れた。準備をしたところで甲斐がない、という事態は、疲労を生むばかりだ。

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アジカンの新曲のPV観たさに、行く先々でCD屋を覗くが、視聴は出来てもPVにはお目にかかれない。オレンジレンジにPVコーナーを占拠されている事も多い。MTV(色々なバンドのPVを観る事が出来る)を点けると、music video awardが丁度放映されていたが、またもやオレンジレンジが登場…面白い程大人気である。 
まあそもそもPVは販売促進用であり、観る事が出来なくともアジカンの事は好きで、CDもそのうち入手する予定なのだから、そんなに求めるものでもないか、という諦め方をした。
無理矢理論を叩き出して諦めた訳だが、販売促進用なのにも関わらず、PV(music video)の作り込まれ様や創作性、メッセージ性の在り様には、文化的価値を与えて良いと私は思う。

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父から500円相当の図書券を貰ったので、早速書店へ行く。予ねてより、購入すべきかすべきでないか、で何度も迷ったものに決める。
シュルレアリスム宣言・溶ける魚 (岩波文庫) なぜか知らないが、やたらと気になり勉強したいと思っているが、なかなか機会がないのが、シュールレアリスムである…どういう精神で以って在ったのだろう、という事を知りたい。

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「僕」を忘れないでよ。

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