わたくしは猫であります.

血が足りない為、動く事を諦める。
が、結局出かける事にした。ぐうたらしている自分を許す事が出来ずに結局、赤や青の残像が瞬く視界を何とか押し開き、シャワーを浴び外出する仕度をする。
宵からウィスキー、ブランデー入り飲み物とその原液を出し始める、或る珈琲名店に入る。若者の私は何だか気が小さくなる。決して拒まれている雰囲気ではないのだが、自分の仕草や作法、会話が、子どものそれだと感じる為だ。琥珀色のとろりとした液体(私の好物)が瓶がずらりと並んだ棚の威厳、絶妙な音量で流れるジャズと食器が触れ合う音の静けさの前で、子ども二人が頑張って背伸びをした会話や、時たま無意識に吐き出す子ども的会話は、何だか相当格好が悪い。ブランデーは避けてブランデー珈琲を注文す。一口呑んだ後、興味本位でミルクと砂糖で甘く仕立ててみた。…「ブランデーコーヒーの何たるか」が分からなくなり、後悔したが。

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うれしい言葉を、仕合せと取る事が出来ない。仕合せになるには、勇気が要る。仕合せを受け入れるには、勇気が要る。仕合せではない、気が進まない状況に耐える事は、案外容易いのだが、仕合せを仕合せと信じ、仕合せになろうとするには、勇気が要る。

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犬が居なくなると、大変である。いつも可愛がり手をかけていた存在は大きい。突然消えてしまったら、当然心配になる。泣き喚くかもしれない。しかし一方、猫が居なくなっても「いつもの気紛れか」と思って諦める。たとえ餌の為でも、ひょっと帰ってきて少々甘えてくるだけで、こちらは有頂天になる。大概手がかからない。その分愛想の良さは期待出来ない。気が無い時は、眠っているか無言で何処かに去っていく。鼠捕りはしても、火事は知らせてくれない。
何時居なくなっても良いのに、なぜか知らないが傍に居る、という安心感は私にとって、常に居る(「と保障する」)疑わしい宣言(この世に「常」等有るものか)の仮の安心感に勝る。
犬は可愛い。猫は良い。
首輪さえ着けておいてくれれば、いつか必ず帰ると約束するから、私は猫でいたい。