相応.

近頃の休日は、遅く起きようが早く起きようが、朝食後再び寝床に戻ってしまうので、結局昼間はろくろく活動出来ない。もう10月だという事実を、何度も嘆いた。

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先日図書館で貸し出して来た、江国滋の『男女驚学』(旺文社文庫 1982)を読んでいる。無駄のない文章と筋、切り口と指摘の鋭さ、丁度良い加減の余裕が少々、にさすがだと感じ入る。ここで内容を零したくない程、はっとする事が書かれている。まだ読了していないが、まず読んで納得したことを書きとめておく。
日本国民は大抵、自分達は中流階層に属している、と考えているらしいが、筆者も含めその人々は下層階級なのである。気持ちに余裕がなくて、どうして中流か。
そういうような要旨を80年代に書いておられる。「日本におけるヒエラルキー」は度々話題に上るが、今でも大抵の日本人は「自分は中流階級である」と認識しているに違いないし、私もそうだろうなと勝手に思っていた。しかし、私が仮に中流階層に属している、として、下層や上層の実態を知っているか、と云われると否である。勿論自分とは違う生活の事は、実際にその生活をしてみない限り知りえない。となると、私達が持ち得る日本におけるヒエラルキーの判断基準は、それぞれの階級に普遍的な気持ちの違いしかないのかもしれない。
確かに、と思った訳である。

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近頃注意する事に、こうやってpcで日記を書いたり、人にメールの文面を電話で作成したりする際、普通では使用しない漢字、ぱっと見た時読みづらいと感じる漢字は、避けなければいけない、という事がある。文学や唄の歌詞では、るびがふられるので、字面の良さを優先した難漢字の使用は有効であり、るびをふった漢字の美しさにもまた、別の良さがあると私は思う。しかし、実用面では、会話は口語で文章は文語と、文章にもTPOがある事実と同様、「有効な」文字を提供する必要がある。人に読まれる前提の文章を、読めなくする事は、全く常識から外れている。
以前、この日記や人にあてたメールで、難漢字を用いてしまっていた事がある。けれども今後は、読みやすい漢字遣い、そして更に、適切な平仮名遣いも心掛けたい。

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久々に、以前よく顔を出していた小さな喫茶店に行く。楽器のレッスンに通い出してから、商事を贅沢にする余裕が懐になく、喫茶店はお預けの日々が続いているが、今日は「たまには」と思ったのだ。「あ、こんにちは」とメニューを渡されついでに云われ、灰皿はなし(通いつめているうちに、喫煙はしないお客とインプットされたらしい。他の店では、コーヒーの時ミルクが出てこない、等、常連になると何かと勝手を覚えてもらえる)、「いつもありがとうございます」と帰りしなに云われる。「たまには」でも、やはり懐を気にしてしまう。近頃は少量の食事でもつので、小さなメニューでも困らない。ボロネーゼのホットサンドを注文した。旨いソースにからめられた具が、かりかりに焼いたパンにたっぷり詰められていて、気をつけないとこぼれてしまう。しばしば口で吸わなければならない無作法を、恥ずかしながら実行する。それでも、マッシュルームが皿にこぼれおち、そのままサラダに隠れてしまった。
「空いている席にどうぞ」ではなく「お好きな席へどうぞ」、帰りに「お気をつけてお帰り下さい」という言葉をかけて下さるこの店は、今風の店の中では結構貴重だ。

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それぞれの身体相応の楽器を担いで、川縁へ。楽器相応の身体の影が、早まった夕べの最後の陽のなかに落ちる。