「世界」観.

後期から水曜は講義が一つなので、終わり次第帰途に就く。この一つもまた、準備に多大な時間と労力を要する。院生なのに少しも英語を会得していない私は、たった5分のプレゼンテーションでも硬直する。聴き取りくらいは出来るはずなのに、まともに対すると外国人の先生の話もろくろく理解出来ない。
雨降りと相まって、気分は落ちていった。近頃精神的安定を取り戻したのに、どうしてもこんなときは悲観的になってしまう。たまにはこういう日もあるし、落ち込む暇があったら勉強しよう、と思ってみる。(あまり強調しすぎると、また不安定になる為、良くないのだけれども)

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「雨で気が滅入る」のではない。私の場合、「気が滅入っているから、雨が鬱陶しい」のだ。雨音や、雨を轢いて走る自動車の音、そら模様が、私は好きだ。濡れた靴や本だけは、相変わらず嫌いだが。

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青い薔薇を貰いにいったらば、店のシャッターが下りていた。そのまま無言で、来た道を引き返す。
化粧水を切らしたので買出しに行った先で、韓国人らしき観光客の群れに遭遇する。いわゆる「おっちゃんおばちゃん」年齢の彼ら彼女らに棚の前を占領され、思わず眉間に皺を寄せてしまった。気遣い、迷惑、静粛、という文字が、辞書から欠けているらしかった。日本に限らず他の国でも、ある年齢の人々には類似した傾向があるのだ、と発見出来て、興味深くはあった。頑丈に世の中を渡り歩いて生き抜いて行くには、そう成らざるを得ないのかもしれない。
初めて肌の水分率と表面の様子を見た。赤ら顔の原因が分かる。血行と水分の保持力に欠けるらしい。美容液を薦められる。そろそろ肌の年齢を…と考え始めていたので、久々に肌に贅沢をさせてやる事にしてしまった。化粧品は割引がついても高価で、値札を見てはいちいち財布を掴む事を躊躇してしまう。よってたまには、「良性」のセールスに乗っかって思い切る事も良かろう。

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分かっている事を「分かってないだろうから云ってやる」という様に、いちいち忠告されると、自信を失くす。20数年その忠告を浴びてきたが、そろそろ限界を感じている。ご希望通り「良い子」を続けてきたが、受け入れられた例はなく常に「それ以上」を求められる。嫌だと思っても、「ここまで育てて貰った恩」で、「良い子」を止める事が出来ない。疲れたのなら、止めれば良いのだ。止められる強さが欲しい。…本当にそれは「恩」なのか。

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私の美の世界 (新潮文庫) を読む。「脳細胞を悩ます」という表現を初めて見た。中流階級(ないし上級)の方、はこういう方をいうのだ、と感じる。私の琴線に触れる事が、この方の美の世界の中で発見できるのかどうか、まだ途中なので見えない。ご自分の世界(ご自分中心に回る世界)を簡潔完璧に書いた随筆、と云っていいだろうか。

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たまに甘える猫のような具合が丁度良い(或いは性に合っている)。が近頃は、好かれている自信を見失っている。
私が好きなひと人、それは友人であれそれ以外であれ、一人でも私を好きでいてくれる人がいたら嬉しい、という理想を抱いている。ひとりで生きていくなかで、ひとりでいる事に闇のような恐れを抱いた時に、小さいけれども温かく微かな光を放つ灯のような、単に私を「好きでいてくれる人」の存在を思い出す事が出来れば、私は大丈夫だと、おもうのだ。
勿論、人を好きでいる事の力は大きい。けれども、好かれる贅沢を望んでしまう事も、自然な事ではないだろうか。たとえそれが私だけに云える事でも、好かれたいと思っている私は確かにいる。私なのだから、私は私である事を否定しないし、それで良い。
私私私…自己中心的、とはこんな人の事を云うのかもしれない。世界は私中心に回っている、と思っていて、間違いではない気がする(いくら謙虚になっても、実際にそうだ。世界は自分自身の感覚で捉える、脳に映った「影」でしかないのだから)。他人は他人中心の世界の中に住んでいるから、侵害したり否定してはならない。お近づきになったり訪問するがコミュニケーションであるに違いない。自分の外の世界を我が物顔で好き勝手をし、他人の世界にまで侵害して良い、という意味で、「私中心」と云っている訳ではない点を、誤解してはいけないだけの事である。