変わる変わらない.

もう十月だというのに、蝉が鳴いている。彼の一族は(続く限り)永遠に、一匹ぼっちで十月に鳴き続けるのだろうか。未来永劫、孤独。

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開け放った窓から、庭の金木犀の香が流れ込んでくる。気温がなかなか秋らしくならない代わりに、動植物達が秋を運んでくる。
週末を前に、久々に呑気に過ごす。その後はたまった作業を進めたい。

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間違う事、失う事を恐れてしまっている。それが私の苦悩と不安定の原因だ。それはすなわち、生きる事を拒否しているという事だ。

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村上春樹を読む。この方の作品を、十代で読んでいたならばきっと、私の思考回路や文章、言葉遣いは、「村上春樹的」になっていたに違いない、それくらいの力と説得力、刺激を、彼の作品は含んでいる。二十代である程度までは冷めている、乱読の真っ最中の私は、冷静に読み、今その刺激云々の「存在」を認識している。十代で読めば、思考と「世界」の幅が広まった気がし、あの頃読んでおけば…とも思う一方で、色々な世界をほんの少しだけではあるが「自分で」知った今、で良かった、とも感じる。
村上春樹好きの人、は何となく「同士間」(或いは読者間)では分かる、と云われる所以を知った。
「…が〜するような---」という比喩の多用は、登場人物についての設定なのか、それとも作家自身の作風なのか、まだ数読んでいないので、分からない。気になるところだ。日本離れしている、とも思う。

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秋空を見て思う事は、変わりやすい…という事だ。
女心と…。

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電車の中で、二人の婦人が、料理について会話していた。一人の婦人は料理好きで、もう一人は嫌いらしい。料理好きな方は、料理の仕方など頭を使えば分かる事だ(落し蓋はキャベツや菜っ葉もので代用する、とか)と云い、嫌いな方は、それすらなかなか(そんな事はまず浮かばない)と云う。どちらの意見も分かる。特に嫌いな方の意見、考える頭もない、というのは、数学が出来ない私の頭に似ている(と私は勝手に話題を移し変えた。自炊も料理もしない私には、いまいち実感が湧かない)。数学が出来る人は、頭の有無ではなくて、こなした問題の数だ、と云うが、苦手な者にとってはそもそも、解法に行き着くまでの発想自体が獲得不可能なのだ。それをいくら云っても、お互い納得し合う事がない。よって、やはり人間は、得意な分野に斑があるのだ。…と諦めないと、やっていけない。