再び、兎.

修士論文の中間発表会を聴く。文学についての論文と発表形式は理解したが、私の専門分野は一体、どうすれば良いのか、いい加減心配になる。
文学作品について、ああだこうだと学者は解釈、解析したがるが、果たしてそんな事をして、何か意味があるのか、私にはやはりうまく理解出来ない。*1読まれる事を前提に、文学は編まれるが、それを解析までしても良いものか、という疑問が私にはある。単なる個人の研究、というならまだしも、文学研究は世界ではれっきとした一学問分野である。深い読解を望まない作品もあるのではないか(そういう作品はそもそも、研究対象にされないのかもしれない)。そして、多くの学者が解析しようとしている道筋で、私も文学についてああだこうだ、と考えて論文等を書き上げようとすると、頭が狂ってしまうのではないか、と思う。法則や原理のように、ある程度「キレの良い」事柄に関わりたい、と思うのは、私の性質なのかもしれない。
しかし、作品の作者と作品自体が解釈を望まなくとも、学者や読者が解釈して、自分や人間の人生に何か、その解釈を反映出来るとしたら、それが文学研究の意義みたいなものになると云えるのだろう。
そもそも、文学、文学的、とは、何なのだろう。

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ホイットマンヘンリー・ミラービートニク

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相変わらず、村上春樹の著作を読み漁っている。精神を揺さぶるような派手な筋の本が読めないでいる。夢ばかり見ている所為で睡眠不足なのか、集中力に欠け、専門書を少し読んでは投げ出してしまう。
レキシントンの幽霊国境の南、太陽の西 (講談社文庫)同じ漫画家が描く人物の顔がどれも似ている様に、同じ小説家の描く主人公とその彼女は大抵同じ「匂いと種類」の人間だ。

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色々な人と接し話を聞いていると、自分は子どもであり、子どもっぽい者だ、と気づく。本能の面、思考の面、立場の面、色々においてである。男性っぽい、と自分で勝手に思っている思考回路が実は女性特有のそれで、男性より男性っぽく、また、反対の事もある。

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過去の過ちを繰り返さないように注意している。が、それは成功していているのか、或いは、知らぬうちに過去をなぞっていて、もう一度過ちを犯そうとしているのか、見えない。
男性は苦しい状況にある時や調子が悪い時、放っておいて欲しいと思う、と聞いた(世界の女性以外の人、どうでしょうか)。こういう事は多分、個人差があるに違いないが、一般的に女性の場合は、誰かそばにいて欲しいと思うらしい。親密な男女両者が同時に調子が悪い時、一方が「放っておいて欲しい」と考え、もう一方が「そばにいて欲しい」と考えたらば、一体どうすれば良いのだろうか。私は、渇望状態が長く続く、もしくは長く続くと見込んだ時、いっそ早く「無いもの」と思考を切り替えた方が楽になる事が出来る質らしい。しかし、切り替える際の判断がなんとも難しい点が、悩みどころなのである。確かに切り替える事で楽にはなるが、その時(その後)何か大きなものを失う事も確かであるから。
こういう類の悩み事は円循環する。
また瞼が腫れた。
スリルと事件に満ちた人生に憧れつつ、全身ではストレス、環境変化のない、平穏無事な生活を望んでいる私はやはり、何だか兎みたいに思える。

*1:どなたか、簡潔に説明してやろう、と云う方は是非お願いします。