「当たり前」地点でつっかかる.

毎日書いているにも関わらず、日本語と文章が下手になっていくのは、なぜなのだろうか。特に、助詞の使い方や、長い一文をまとめあげる力がお粗末である。毎日を書き留める事を始めて、やっと一年だ。
気づけばもう11月も後十日しかなく、焦っている。
ひとの手を握って5ヶ月、はっきりと「中身」が分かるまでぐしゃぐしゃになってみたのが半年前、何とか固まってさなぎの殻から出てこれて…一ヶ月と少し。大変だったが悪くない数ヶ月だった。
あともう少し、と、これからもっと。

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家族にくらいは、感情を露にしても良かろう、と思うのだが出来ない。いつものように、傷ついて塞いで泣いて、暫く何かに没頭する事で「無かった事」にしてしまう。人を受け入れる事と、自分を受け入れて欲しいと思う事を止めたくなる(好きなひとにさえ)が、またもや踏ん切りがつかず、思考は円循環し続ける。生きるには取捨選択が必要なのに、肝心なところで優柔不断で臆病になってしまう。

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人と食事をする事(しかも楽しく美味しい)、食事が出来る事は、意味がある様だ。自分が食欲という本能的欲求を満たしているところを見せる、という事は、あまり気安い事ではない気がする(私は)し、その時の気分の良し悪しは料理の味を変える。そして食事の良し悪しは、生活を変える。
塞いでいる時や不機嫌を撒き散らしたい時でも、なるべく「何でもない」様な顔をして家族と食事をしたらば、気分が悪いなりにも少しは味を感じる。逆に、気まずい食事になりそうな時や、叱られそうな時叱られたくない時は、ひとりで食事を済ませたくなる(叱られた挙句泣きながら食事をすると、海綿でも食べているかの様な味と食感を覚える)。
食べ始めると黙り、食べる事に集中してしまう質の私は、喋る機会を持つ為の食事が苦手だ。出来れば、喋る機会と食べる機会は分けたい。そう出来ない時は、飲み物か甘い物(ドルチェ、と云ってみたいが、気障ったらしく不似合いなので云えない)の時か、注文後の料理待ちの時に、頑張って喋る事にしている。
単に食いしん坊であるのと、不器用無作法ながら行儀良く食べようとする事で精一杯なのだ。