辛い都会.

去年の12月の日記を見て初めて、その時の感覚を思い出す。埋まらない夜と、ぬるま湯(変換したら「微温湯」と出てきて妙に感動した)を浅く張った風呂の中で溺れるような昼を、常に下を向き、泣きたくなった時だけ上を向いてやっと渡り歩いていた日々の感覚が甦る。何も出来なくとも身辺をこざっぱりと片付けておく事、自分の「嫌」と「好き」を知る事、外界や人に接する事、家族には正直でいる事、「自分を失った」自分が、自分を律する方法を一年で発見出来たのだから、まあ実り有る一年だったと云えるかもしれない。
月を見つめた日の一年前の自分は、『下弦の月 1 (りぼんマスコットコミックス)』を読んでいた。

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予約していたセミナーの会場は、都会に派手にそびえ立つ或るビルで、「見た事あるし、すぐ分かるだろうから、地図は要らないか(印刷している時間もないし)」と思って油断していたらば、見事に反対方向に進んでしまい、会場に到着するのがぎりぎりになってしまった。最寄り駅に30分以上に到着していた事が救いだった。(それでもまだ、ばらばらと入場する人たちに驚いた)
巨大タワーというのは、近そうに見えてもなかなか辿り着けないものらしい。或いは、単に焦燥と疲労(勿論走っている。小柄な所為で長距離が得意で本当に良かった、とこんな時感じる。実生活では短距離が得意より長距離が得意の方が良いに決まっている、と思いたい)の所為でそう思ったのかもしれない。方向音痴は、今後も都会の中で散々な目に遭うだろう、自信がある。(自信、という単語は、良い意味の事で使うのではなかったか)

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甘く見る、という慣用句の字面だけ見ると、何だか変な気がする。「甘い」には、手緩い、程度が低い、という派生的意味があるから珍しい事ではない。が、共感覚か(ex.青い音、甘い手触り等、異なる感覚が同居している事)、と疑ってしまうのは、ヲトメ性の所為なのかまたは職業病なのか。

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次週もまた発表があるので、図書館に資料を狩りに行く。交通費を浮かせる為に、何駅分かを40分かけて歩く。好きな道を選んで歩かないと、飽きる距離と場所だ。
サイト「いとづきかかりて」のmaya.さんのところで、月の話題と写真を閲覧していた所為か、ここ数日自分でも月を探してしまう。月は丸くなってくると、途端に存在感が増す為、満月(だと思う)の今日は探すまでもなかった。丸い街燈と並べて幾つか写真を撮った。単なる反射であれ程風情ある様に輝く事の出来る物体は、珍しい。