一年前へのお説教.

人は思っている以上に、似ている。特に棲む国が同じであると。*1良い意味でも悪い意味でも、人は他人へ、思っている程意識を向けていない。しかも、向ける意識は、その人の都合で決定される、甚だ主観的な意識なのである。怯える事はなかった、人はそういうもので自分もそうであるのだ、そうして生きていくものなのだ、と知った。
人との違いや個性を意識する世の中であって、人は皆一緒である、という考え方が近頃、暗黙のうちに排除されている。乱用されなければ、皆一緒、そうやって生きている、という考えも重要であるし、決して不自然ではないと思う。にんげんだもの、というフレーズが理解出来たのは、少し上向きになってからだった。

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徹夜の翌日は爆睡、そしてその翌日は徹夜、というサイクルが続いている。危険である。そろそろ「破綻」「させる」べきであろう。

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師匠からお借りしたCDをまとめてPCに放り込んだ。人から借りたものは、出来るだけ丁寧に扱い、必要以上に触れずに、そして早く返したい。ドジなので、いつ何時不注意で破壊してしまうか分からない為だ。「癒されるよ」と云われて聴いたCDは本当に癒された。音楽は尽きない。
図書館から借り出したCDも、CD-Rに落とさずにPCに放り込んだままにしてある。PCごと駄目になる日が来た時の自分が、いかに嘆き哀しむか、容易に想像がつく。便利なものは脆い。

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説教臭い事や、一部の人達の間や社会一般ではうけるだろう事を、或るひとは理解も納得も示さない。こんなひとがいるのか、私も凡人だな、と思わされる。本を読まないひと人は、書物を信仰するきらいのある私とは違う脳の使い方をしているのだろうか。
どういう面では共通性で、どういう面では差異で、人というものをふるいにかけて暮らしていけば良いのか、まだまだ経験不足の私という人には分からない。
その点が、生活やひと人との関わりの面白いところなのだろう。線路は続くよどこまでも。

*1:memo:私と同じ様な時期に、同じ様な事を考え悩んでいる人を、web上や現実(浅い人間関係の中ではあるが)で見かける。生存する上での限界を超えない程度ならば、底の底まで悩んでみるのも手であるし、相談相手に頼るのも良いと、経験上思う。どうすれば自分は底から這い上がる事が出来るのか、この時期に気づいておく事は重要である。ただ、理想や自己嫌悪に囚われていると、なかなか悩みは解決されない。嫌われても、恥ずかしい思いをしてでも、「こうしたい」と思う事をする(具体的な行動で実行する事に難があれば、まずは日常生活の中での意識から)。そういうある種の無茶は、若いからこそ許される(年老いても、自分が柔軟であり無茶による反応を恐れなければ、可能)。自分の感覚を把握する事、「無理だろう」という意識を一旦否定してみる事、踏み出す事が大事、他人に対しては無理でも肉親には正直であろうとする事も第一歩だ、と一年前の自分に云いたい。(実際は、分かっていても歩み出し歩みながらでないと実行出来なかったが)