明けましておめでとう.

今年明けて初めにした事は、年賀状を書き、メールといつも覗くサイトをチェックし、モーツァルトの四重奏を流す事だった。そして今日元旦は、着物を祖母に着付けてもらい寺にお参りに行き、読経をした。それからもう一方の祖母宅に挨拶に行った。「段々美人になってきたねぇ」という言葉に、祖母らしさを感じて笑った。
いつも通りに夜更かしした為、着付けとお参りの為に早起きすると当然一日眠気と格闘する事になってしまった。が、寺でお経を聞き和尚さんのお話を伺っていると、その時だけ「神経が透き通る」様だった。信じる、とは何なのだろうか。

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着物とは、単純に複雑を要求する衣類だ、と慣れない私は思った。次から次へと登場する小道具、縦長の物体が複雑にかたちを変えていく様は、とてもぢゃないが私一人では手に負えない。着物が当たり前だった時代と、着物流行の時代の当事者達を、思わず尊敬してしまった。「良いな」と思うけれどなかなか…という人種の仲間入りをしてしまいそうだ。「良い」ものだ、と本当に思うのだ、滅んでしまっては勿体無いとも。

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お寺では毎年、檀家にお茶と菓子の振る舞いがある。今年は薩摩芋入りの羊羹をいただく。薩摩芋の甘さとほくほくという食感は安心する。手作りらしく、感謝していただいた。

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二十代に入っても未だ学生の私は、恥ずかしくもお年玉をいただいた。母が祖母に、こっちが(お金を)貰いたい年なのにねぇ、と云っているのを耳にして落ち込む。十分分かっている事だ。学業を続ける事を有り難くも結局渋渋了解し、投げる様にお金を出してくれた両親の事も、分かっている。いつ大人になるのか、と不審に思っている祖母や親戚達の事も考えれば分かる。お金なんか要らない、と云いたいけれども、実際必要なので「すみません」と云って受け取ってしまう。有難うと云えない自分も含めて、情けない。それ以上に、とても哀しい。
受験生の弟が、頑張った成果が出て両親に褒められている。私も褒められたかったなあ、と思うと泣けてきた。

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それから、私は私に嫌な夢ばかり見せている。好きなひとにまで、「大嫌い」と叫んでいた。鬱陶しがらないで、見捨てないで、そう云いたいのだろう。せめて、被害妄想のし過ぎ、だと思いたい。そういう事にしておく。




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旧年中は御来訪いただき、本当に有難うございました。今年も頑張って続けていこうと思います。大した事はかけませんが、どうぞよろしくお願いします。今年は、就職活動と論文、音楽や趣味も勿論充実させる、多忙な日々になりそうです。