何となく、のもと.

電話のウェブで済んでしまうことがいっぱいありすぎて、すっかり依存してしまっている自分に気づく。主に、乗換案内と就職情報サイトを活用している。これらは仕方ないとして、何でも電話で調べれば良いとなんとなくウェブのボタンを押してしまう。

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なんとなく、が一番恐ろしいものだ。それは多分、なんとなく、という感覚は、自分の無意識や直感に一番近いところで働くものであろうし、自分の根底を一番正直に表している部分である、とするならそこがそもそも歪んでしまっているとすれば、全体的に歪んでいるも同然である。

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液晶にむしゃぶりついていないで、吸って吐いて息をしよう、というアジカンの後藤さんの声で、忘れていたことと現実世界にはっとした。分かっているつもりのことは大抵、私の歳では分かっていないし分からない様な気がしてきた。

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会社セミナーまでの時間が空いたので、美術館に行き、視覚を揺り起こす。
ドイツの現代写真の特別展をやっていた。それはとてもドイツらしいもの達だった(私の知る程度でしかないが。よってその「ドイツらしい」という印象は外れているかもしれない)。「重さ」を受け止めようとしている真面目で厳格な姿や、言い表し様がないが何というか、奥行きがあると思えば表面のユーモアだけしか見せようとしないもの、とその逆、そんな印象を受けた。一見可愛らしい、ちょっと不機嫌な顔をした子どもの写真は、違和感を感じてよく見てみると、背景は合成で子どもとマッチしていない。子どもらしい服装、本来なら馴染むであろう風景の前にいる子どもは大抵、不機嫌というよりまるで戦争中の人々の様な不信感のある表情を浮かべている。そういう不気味な表現を得意とする、或いは意図的に行っている、という特徴が伺えた。そのほか、人工物、工業製品の「形」への興味や、無人空間の中の物語提起等、「多辯」な作品が多く見られた。
図録を買おうと思って出かけたが、手元にあって何度も見返すかと考えると甚だ疑問の作品群であった為、結局買わずにミュージアムショップを出た。そもそも図録を買うという贅沢は、私にとって早すぎる。代わりに、気に入った葉書を何枚か買った。白黒写真に惹かれる。長谷川潔の銅版画コレクションが、この美術館では多く所蔵されていて、嬉しい。(人気があるので、検索をかけてみれば確かめる事が出来そうです)

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つい、喫茶店なんかをウェブで探したくなるが、歩きまわって行き当たりばったりの方が幾分楽しい気がする。すべて時間を短縮したいが為だと思い当たって、哀しくなった。

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かなしい、を、哀しい、とあてる事は、吉本ばななよしもとばなな)『哀しい予感』を読んで知った。人生で初めて読んだ小説だった様に思うが、それをいつ読んだのかもはや記憶には残っていない。ばなな、という「はて」と思わせるようなペンネームと知名度に興味を持った事がきっかけだったのは覚えている。

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上役の方の話が面白く、選考に応募する予定も定かでないのに、すっかり入社したい気持ちにさせられる。こういう気持ちを何社分か、持て余している。

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何となく会い、何となく寄り添い、何となく去る。