映画も良い.

映画版『東京タワー』を観た。変な喩えだが、原作の小説が腕の無いミロのヴィーナスだとすれば、映画は誰かにより腕を付け足されたヴィーナスの様に感じる。別個のものだと云いたいのであり、どちらが優れていると云うのではない。良くも時に悪くも、小説は小説であり、映画は映画である。ただ個人的な好みを云うならば、原作がやはり好きだ。作中に漂う空気--それは決して口(字面)には出されないもの--を感じ取る快感がある。その空気とやらが具体的にストーリーとして並べ立てられてしまうと、あまりの密度の高さに窒息しそうになる。
しかし一本の映画としての出来ばえは、映画館のクリアな大画面(スクリーンの、つるんすとんとした質感と透明感は好き)で観るべきだったと思う程美しく、また充実した内容の恋愛映画だと思う。ちなみに、映画館に観に行かれた部の男性の先輩は、もう一回観たいとは思わない、と怪訝なお顔でおっしゃっていた。小説なら通用しても、映画として観ると腑に落ちない展開、終わり方があるのかもしれない。腑に落ちない、というより、落ち着かないのか微妙な不快さが身体に残るのか。
事細かな恋愛映画は窮屈、と私は感じるらしい。ひとつ、観る映画への制約を発見してしまった。少し残念である。
落ち着かなさの原因は、密度の高いストーリーと、登場人物の希薄な感情表現(映画の美しさと雰囲気を損ねない為か、激情の上澄み部分しか見せていない)とのギャップが、気に障るぎりぎりのレヴェルで生じてしまった点にある様な気がしてきた。
松本潤は派手な格好ばかりさせられ、実際に似合っていると思うが、私的な時間ではどんな人でどんな格好をしているのだろうか。形の良い赤い唇にいつも目がとまる(眉毛は云うまでもない)。

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ひとと花見に行った。毎年地元で祖母と花見をするのだが、今年は機会がなく行けない。行った時は毎度、老舗の御菓子司で花見団子を買ってくれた。今年は祖母のかわりに同じ店で花見団子と桜餅を買った。 花見をしながら、ひとがしきりに「行きたい」と云っていたダムに行く。ちょっとした散歩のつもりが、数時間のウォーキングになり、危うく道に迷って帰れないかという事態になった。よって、花見に行ったというより歩きに行った格好になった。目的地にて、御菓子を食べた。美味しかったけれども、たっぷり歩いた時は御菓子では足りない。お弁当づくりを早々に諦めた自分に、この時初めて後悔した。
白餡の桜餅は上品で美味しく、三色団子の一番下の団子はしっかりお茶の味がして、御菓子屋で求めて良かったと思った。
団子をしっかり食べたくせに、家族へのお土産に名物の茶団子を買って帰る。家族に、昼間も団子を食べた旨を話すと笑われたが、喜んで貰えたから良しとする。
散る桜の方が好きみたい。

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弟につられて『ターミネーター2』を観てしまった。娯楽に使う時間があったら他の事をするか、眠るかしたいと思いながら、いつも観てしまう。ロボットが可哀相だった。たとえ生き物でなくとも「哀しい、可哀相」と感じるものらしい。それは、何かが失われる事に対する哀しみなのか、遺伝子に組み込まれているであろう、八百万の神への畏敬の念によるものなのか、知れない。
消えてしまうサイボーグとの別れを惜しんで泣く子どもを見て、「人間がどうして泣くのか、今分かった」という科白が堪らなかった。