もののふしぎ.

昨日は消え入りそうな顔色だったが、今日は泥に顔を突っ込んだ様な色をしている。どちみち化粧ののりは最悪である。徹夜と爆睡を繰り返している所為である。

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遊び盛りと云うひとと「玉転がし」(ボーリングとも云う)に行く。三回目は、未だかつてない悪成績で、歳を思う。レクチュアしてもらっても、実践する(運動神経に伝える)事が出来ない。
運動音痴か得意かは、脳と運動神経の繋がりの良さ、脱力のコントロール如何が、かなりの割合を占めるのではなかろうか。楽器や何か、身体を使う作業における能力も同様だと思う。頑張ったところで一定以上何かの能力が向上したためしがないのは、脱力する事が下手だからだと思う。
ストライクを出す体育会系のひとを見ながら、どうせこのひとは、愚鈍な者が抱く憂鬱を知らないのだろうな、とひとりごちていた。それでも拍手を送っておく。
私と遊んで「楽しかった」と云った男性は、今のところいない。申し訳ないが、或る程度は仕方ないので諦めて欲しい。ちなみに、スケートとスキーは出来るのだが…。

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書店にて、対らしいごく小さな外国の本を二冊見つけた。10cm×5cmくらいだろうか、装丁は同じ、赤を基調にしたチェックだった。題名から、男性と女性をそれぞれ描いたものだと分かる(一冊は...princeとついていて、もう一冊は何だったか失念したが女性を表す単語が見られた)。一ページ開いてみると、宛名と差出人、愛の言葉が綴られていて、もう一冊には、一冊目の差出人宛てに宛名が指定されていた。そして同様に、気持ちが綴られていた。一瞬ほほえましく思ったが、二冊揃ってこの書店に集まっているという事は、一体どういう事なのだろうか、と悩む。
どちらかが手放したとすれば、一冊しか世に流れないはずだろうし、もし両者共手放したとしても、彼らにとって外国である日本の、小さな書店に二冊揃う確率なんて、殆ど皆無だろう。 結婚した夫婦が亡くなり身内が一斉に整理を行ったのか、離別の際に二冊とも手にした片方がいつの日か手放したのか・・・妄想の余地は十分にある。確か、戦後間もない年数が記入されていた様に思う。

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気に入りのカフェに久々に行き、キーマカレーを食した後(週代わり定食にするか、ナシゴレン風チャーハンにするか、数分迷った挙句)、机に生けてある緑を、手帳に写生した。なぜ突然、そんな気が起こったのか分からないが、多分、自然の造形美に感銘を受けた所為だと思う。人間が創ったもので美しいものは勿論あるが、自然が生み出したもので美しくないものは無いのではないか、と拙い画と共に手帖に書き留めておいた。

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玉転がしという行為よりも、玉の色や形、ピンのくびれのキュートさが気になって仕様が無い。玉は、飴玉みたいだ。丁度、筋も入っている。