am I you...?

dokoniaruno watashi no kaisha...

                        • -

heibon sugiru jibun ga nikui. heibon dakarakoso tanin to communication ga torerunoda, soreha iitoshite hitori de naniga dekiru to iunodarou. nakitai.

                        • -

リバティーン」は、さすがJ.デップが脚本を三行読んで出演を決めただけある。私にとっても「人生でこの一本ありき」と云えるくらいの映画になった。観た全員が全員、良かったとは云わないかもしれないが、少なくとも私には、人生における悩みとして共感する部分が多くある。酒と色に溺れ性病で死んだ破廉恥な詩人(彼曰く、最後に素面だったのは五年前との事)、と云って終わりにする事も出来ようが、溺れずには居られなかった彼に、より惹かれ知りたいと思うのは、理であろう。(日本にも、若くして心中、自殺した作家がいるが、彼らは一様に、そうせざるを得なかった、そうせねば生きていけなかった事情と不器用さ、感性の鋭さがあったはずである。)
どうして人は臆病さを偽るのだろう。批判を恐れるのだろう。自分を偽って平気で居られるのだろう。そんな疑問を、主人公は人に問い、偽善者共に唾を吐きかける。「私は男女構わず何処ででもやれる。だから私を好きになるな。」という彼は悪魔の様だがしかし、理性と感性を強く持ちすぎた為に天から堕ちてしまった、天使よりも純粋で高潔な者の様に感じられる。
臆病でとても弱いのならば、堂々としていれば良い、どうして偽ろうとするのだろう。自分でも常々引っかかる疑問である。堂々としている事が真の強さであるが、その強さを貫くには、並々ならぬ精神力と苦労が必要なのである。世はそう簡単には、楽な生活を与えてくれない。
ジョン・ウィルモットの作品では、性的な表現でもって時代が痛切に批判されている。(彼が作った芝居は衝撃的過ぎて、映画では「どうなる事やら」とどきどきしているうちに、途中で中止されてしまった)しかし個人的には、包み隠さず人間という生き物とその欲求を表現する作家と作風を嫌いになる事は出来ない。下品である、と云われると反論しかねるが、性的解放は生的解放だと主張したい。(それは単に私が子どもっぽく、そういう方面にまだまだ好奇心一杯であるだけかもしれない)

                          • -

堂々と自分を曝け出した。それはそれは下品であり、見っとも無い。そんな自分だが、「それでも好きか。」

                          • -

詩集が久々に読みたくなった。ボォドレェルの散文『巴里の憂鬱 (新潮文庫)』が手近にあったので少し読む。

                          • -

服装コーディネートには手を抜いていないつもりだが(たとえ選択の幅が少なくとも!)、着回しと金銭的な事情上、パンツ類とシンプルなカットソーやシャツ類の数の方が、スカート類や少しお金をかけた気に入りのものより多い為、地味なコーディネートの日が殆どである。特に楽器を弾く予定の日は、スカートだと足を開いた時不恰好である為、パンツにする。今日は気温が高く天気も良かった為スカートが穿きたくなり、着合わせの都合で袖口に少々のレースがくっ付いているカットソーを合わせたところ、研究室の同輩に「今日はデート?(いつもと感じが違うから)」と訊かれた。「何でも無い日」にスカートを穿くと驚かれる、という事実に閉口す。確かに流行のお洒落はしていないが、特別なお出かけの日でも研究室に篭る日でも手を抜いた日は殆どないし、全くの気分で服装の感じは変えるのだ(よって「精神的二日酔い」の日は、白いシャツにジーンズという、地味も地味な「お粥さん的」服装にする。釦を外す位置、スカーフやベルトでどうにか多少の味付けをする)、という主張をよっぽどしたかったが、「自分はいつも、客観的に見てもお洒落な格好をしているの!」とはどんなに見栄を張ったところで云えそうにないので、「映画観に行くねん。ひとり寂しく!」と答えておいた。(全く以って寂しくない、念の為。)
やり場の無い小さな憤りは、映画と詩集の中に打ち棄てておいた。
※しかし、好きな人(達)に遭うかもしれない日は、デートの日より磨きをかける時もあるという事は、極秘であります。