味は如何程.

今年三度目の迷い仔猫を、狭い私道で見つける。丁度良く雨の当たらない場所で、大きな声で鳴いているから、暫くは無事そうだ、と勝手に判断し、道を急いでしまった。また救う事は出来ない。

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ビニル傘で大雨に打たれるのは楽しい。透明な水がビニルにぶつかるその振動と形が好い。

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靴をぐしゃぐしゃに濡らして、雨の中散歩をする。こんな気分になるのは、古都だからかもしれない。潤んだ世界、殊に潤んだ街灯の橙が好きなのだ。他に、センチメンタルな物思いに無理矢理引き込まれる事も、晴れの日程鬱陶しいとは思わない。

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短歌の同人誌を見に、久しぶりに老舗の書店に行く。伝統と知名度が恐らくありそうなもの(『塔』等)から、気軽に立ち上げたものが数冊ある様だった。一首ずつの中身、云い回しは、詠む人の数だけあれども、雰囲気はどれも似通っている様な気がする。近づき易い、という点では、素人には嬉しい。
短歌もどきをさらさらと日々編む事は快感だが、果たして、自分だけでなく、他人に何か感じさせる、遺伝子を揺さぶる、強い歌を、古典の下積みなくして詠む事が出来るのだろうか、と難しい事をごちゃごちゃと考えている。がもっと単純に考えてみると、古典の下積みは日本人としての下積みなのだから、そこをぐらぐら云わせる為には、堆積物の構成要素を知る必要があるのは当たり前か。
個性は、これがそうである、と気張って現れるものではない。「これぞ個性」という気負いでもって言葉をこねくり回して編んだ作品に、どれだけの威力があるか。どんな芸事でも同様、「真の花」の咲く、迷いと飾り無く自分を表現出来る域に達するには、熟練が要りそうだ。
これは凄い、と頁をめくるなり雷に打たれた様になり、即、歌集をレヂに運んだ、その作品群の主は、黒瀬珂瀾氏だった。(何度もしつこく書いているが…) 氏も参加している、最近創刊された[sai]という同人誌を読むと、現代の短歌の世界がまた広がる。この人にしか編めない歌、という確信が私を嬉しくする。黒瀬氏以外にも、追いかけたい歌人が出来、数人の名はすでに手帖に記してある。
メディアでの短歌ブームは随分下火になったが、自分ではまだまだ注目していたい。

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「思う」と書くのは、専ら、自信の無さへの弁明と、読者、自分、人生、馬鹿の壁に対する甘え、だと思っている。やはり、「思っている」。

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パフェを見ると毎回、「これくらい、自分でも作れる」と思う。しかし、懲りずに店で食べる。飽きない頻度で食べる。
果物のソース→バゥムクーヘン、スポンジケーキ→アイスクリーム→果物→コーンフレーク→チョコレートソース 凍り蜜柑を使うと美味しいみたい。

>私信:夜殿>例のパフェ屋、また行きましょう★同パートの四回生で、でもいいかもしれない。オーダーははっきり、大きな声で!