三角の耳.

austria argentina

このところ、毎日猫に出会っている。
野良猫コロニー付近を早朝に通過すると、未だ眠っている猫と親と兄弟に寄り添っている子猫を観察する事が出来る。昼間でもどういう訳か、散歩中の猫に会う。決して愛想はよくなく、睨み合った末向こうがそそくさと去ってしまうばかりだが、姿を見る事だけでこちらは嬉しい。
三角の耳と、優美に曲がり注意深く地面に向けられる足先が、何とも愛しい。つれなさに憎しみさえ覚える時も、あの三角の耳と尻尾を見、肉球を想像すれば、目尻が下がってしまう。顎の下を撫でる事が出来ないのが惜しい。
動植物の造形美に感動し、立ち止まる日々が続いている。

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茶店で、目の前の席のお客が、ケーキとアイスコーヒーを半分残して出ていった。お腹がいっぱいだったのだろうか、気分が悪くなったのだろうか、美味しくなかったのだろうか、気になる。仕方がないにしろ勿体無いなあと思う私は貧乏性である。昨日も、穴の空いた靴を、まだ捨てないでと親に云い返した。

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切られた枝の先から新芽が出る、その力強さと美しさと無垢さに感動す。

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何を買う訳でもないが、行くと満たされた気分になる、と或る雑貨店に立ち寄る。先日から東欧フェアをやっていて、買い付け品が並んでいる。比較的安価なので心が揺らぐも、近頃の私の財布の紐は固いままである。が、一目惚れをし、しかも他で見かけたらもう少し値が張るような気がする一品の元から離れる事には、骨折った。
化粧品類の消耗品を買い足しに出かけた今日くらいは、月一度の贅沢な日にしようと決めて(先日もお酒で贅沢をしたくせに)、先日手に取った品を買う事にしてしまった。
オーストリア製の白い小さなカップ(デミタスサイズ。ソーサー無し)で、アメリカ製ファイヤーキングと同じ材質の様、分厚い硝子だが、お茶等を注ぐどそれでも中身の色が透けて見える。側面には、麦と蔦らしい模様が慎ましやかに付いている。お飯事道具の様な大きさではあるが、気に入っているので普段遣いにしたい。お猪口代わりにも良さそうな気がしている。
蚤市かネットオークションででも、丁度良いソーサーを見つけて添わせてやりたい。少し落ち着かなげでさびしそうな顔をしている。

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街で、相合傘がどかんと描かれている学生鞄に出くわした。傘の天辺には大きなハートが乗っかっていて、修正液で輪郭を描いた上から、ピンク色のペンで塗りなおされていた。(そんなに大きいものが乗っかっていたら、傘が折れてしまいますよ)
鞄を持っているのは男の子であるが、名前の字体を見るに女の子が描いたらしかった。鞄の主で、長くふさふさとした睫を瞬いているその背の高い男の子は、外国人らしかった。
どんな名前なのだろう、ともう一度「傘」に目をやると、女の子の向かいには、「ミケ」という恋人(あくまで仮定)がいた。
一瞬三毛猫を思い浮かべ、理解不能に陥ったが、成る程、男の子はきっとMike(マイク)という名前なのだろう。英語を習いたての時、Mikeはミケ、comeはコメ、と覚えた事を思い出した。
ペットの様なあだ名で呼ばれる事を考えてみると、呼ばれる事自体は大して抵抗はないが、呼び名を耳にした通りすがりの見知らぬ人に笑われる事は嫌かもしれない。知り合いに、「エ◆」という碌でもないあだ名をつけられた男性がいるが、やはり知人以外が多くいる場でそのあだ名を呼ばれる事を、ひどく恥ずかしがっていた。真面目でとてもいい人であるが、実際「あだ名に準ずる」のかどうかは知らない、そして知る由もない。「どうなの」と尋ねてみたいのは山々だが、そんな「下らない」話をする人だったのか、と失望されかねないので、当分その予定はない。

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今日の読書:『童女M 16の詩』(松崎義行 新風舎
今までコンプレックス一杯だった少年は、投稿作品が認められた事により詩作に没頭し、編んだ詩を詩集として出版する為に15歳で自ら会社を設立して詩を印刷所に持ち込む。そうして出来上がったのが、『童女M』という詩集である。友達に自分の詩集を渡し「すごいね」と言われる事で彼は自信を得た。
今出回っている詩集は、著者が15歳の頃上梓した詩集の完全復刻版である。大いに感動し共感出来る部分が多い。瑞々しく、いとおしい。見えないものをたった一つのちっぽけな身体で追い駆けていた時代を思い出す。泣いて笑って恋をして想って傷ついて…。
何度でも読みたいと思う大切な詩集になった。