「サヨナラ」という名の楽団.

所属団体の演奏会に出演し、その後の打ち上げで帰宅が少し遅くなった。

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ばたばたと鳴る夜の雨がうれしいのだから濡れてもいい窓を開けておいて欲しい。

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諦めが悪い。諦めねばならない事の、諦めも悪い。どうせ又、自分可愛さの所為だ。どうしたら良いのだろう。この性格と考え方諸共。譲れないところもある、しかし改善せねばならぬところもある。頑固なのだろう。

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久々に楽しい飲み会だった。年が離れた方々の話をうかがう事は、本当に有意義だ。 …単に「楽」だっただけかもしれない。当たり障りの無い人間関係に、疲れ気味で面倒臭がりで幼稚な今の私は、単純に苦労せずに済んだから、楽しいと「誤解」したのかもしれない。

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小難しい理論で固めた音楽よりも、単純に自分は愛や平和、温かみを伝える音楽を提供したいだけなんや、自分にはこれが合ってるやと思う、という主宰者の気持ちは、或る曲を弾いている最中に存分に伝わってきて、鳥肌が立ちそうなくらい感動した。こういう瞬間を味わうと、人間も捨てたものではない、音楽をやっていて良かった、と思うのである。

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音楽に対する色々な価値観に触れる事が、音楽、音楽活動においての動機(motivation)になっている。 その為、色々な人の色々な価値観に接する機会がある。師匠と師匠主宰の楽団、師匠の旧知でもあるOBさんとOBさん主宰の楽団では、趣旨も価値観も違う。どちらが良い、という訳ではない。どちらも必要である、と思う。 音楽を大切にしたい、という熱意で繋がってはいる事を、忘れたくない。

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最寄駅にて、迎えを頼んだ母を待つ。バスの停留所付近を通りかかると、ホームレスらしき老婆に声をかけられるも、保身の意識が働き、というより、「金くれ」と云われても対応に困る(あげてはいけないのかもしれないが、あげてしまうだろう。が、あげるとなると、更に幾らあげれば良いのか、考えねばならぬ)、という予測により、無視してしまった。 人の存在は無視する事は最悪であり罪悪である、という自分の理により、後々暫く罪悪感、偽善者感に縛りつけにされた。
そういう時は素通りすれば良いんだよ、と以前の恋人が呆れた顔をして云った事を思い出した。素通りするものでしょ、普通、と云ったかもしれない。
次に思い出す事は、苛められている子どもと苛める子の間に挟まれた子の群れの事であった。(苛められている子か、苛められている子と仲良くするのが自分であったが)
知っているか知らないか、強いか弱いか、「どちらか」になる事が出来る人はいい。気づいているくせに何もしない事に、最大限の罪悪感が湧き起こる。