天賦の才.

自分でも意外な程に早く快復する事が出来た。
大学職員の面接に臨んだ。本校学生が殆どの様で、面接官から発せられる視線の温度が違った。どうも場違いらしい。こんなに手応えのない面接は初めてである、可笑しいくらいであった。勿論良い結果の電話は来ない。
図書館に行くついでに、美術館に寄る。父から貰った招待券を手に美術館の前に立つと、中はすでに人だかりである様子が容易に想像出来る程、人が多い。さすが土曜、そして異常に人気のある画家の展覧会である。
他人の体臭や香を嗅ぎながら、展示室を進む。作風はさて置き、素人目にも明らかなぐらいありえない程巧い。完璧な基礎の上に、独自の作風や超絶技巧が乗っている、という感じである。ぶれが無い。天才的な感覚で以って基礎構造が成っている様な気がする。一度外国に旅立ったものの、日本の良さを認め日本を題材にした素晴しい絵(それはもう!)も描いた、にも関わらず日本自体の美術界から束縛を受け、結局外国に帰化してしまった、という画家の絵が、現代日本人にもてはやされている事実は、皮肉としか思えない。国からの裏切られても、それでも愛し又憎み執着し続ける様子が、痛い程現われた絵もある。
近頃、絵の鑑賞法が変わった。どんな事を思って描いたのか、どんな人なのか(例えばナルシストかどうか、どの点を偏愛しているのか、コンプレックスがあるのか、どんな時代なのか)、という事を見出そうとして、絵を見つめる様になった。単に、美術知識のない素人が、時間をかけて絵を見ようとすると、こういう方法しかないだけの事の様にも思えるが。
知識は無いより有った方がまた楽しい、そう感じるから、美術書を図書館からしばしば借り出すも、一度も満足に目を通せた例がない。読み物としての新書に書いてある程度の事柄なら、少しだけ頭に入れてある。
単に、フランス、お洒落感、猫、突飛な人間、和洋折衷が今の日本で流行しているから、受け入れられ異常な人気を博しているのではないか、と、藤田嗣治の絵について少し屈折した仮説を立ててみた。
文学でも美術でも、作品が好きなのか作者が好きなのか、一体どちらなのか分からなくなる。両者は切っても切り離せないという事は自明であるが、作品と作者は全く同一では無い、また異なるものではなくある意味真実である。やはり、「この人はどういう人なのだろうなあ」という事が今の自分には最大の関心事らしい。

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明日は楽団の練習であるから、早い時刻に帰宅し楽譜と睨めっこした。譜読み揚力が落ちてきている。楽譜とソルフェージュを音名で歌う、という訓練を久々にした。元々音感や才能は無い様なものなので、ごくごく基本の点で時間を費やさざるを得ない。9割くらいは記載通り歌う事が出来るが、不意に分からなくなるところがある。よくよく考えてみると、いつもこの「分からなくなる点」で足を捕られている気がするのだ。突然ぱっと分からなくなり混乱する点は一体何なのだろうか。1度と7度の移動か、近接して同じ音がある場合、特にミとファの音が突然分からなくなる。これはなかなか手ごわい。

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美術も音楽も、人や場所、時間を選ばない。神が与えし業だ。

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今夜も焼酎を戴く。
「それがビジネスだから」という割り切りを許す事が出来るのかどうかで揺らいでいる。