私は日がな頬杖をつくだけ.

煩悩だらけにも、程がある。

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mixiが嫌いになった。知らない人とネット上で繋がる事にはとても意義を感じるが、知人と繋がるのはやはり現実だけで十分だ。それは前々から感じている事だが。ネットを捨てて、町に出たい。結婚報告まで画面上でされるなんて、哀しすぎる(向こうにも本当に色々事情があるのだろうから、という反論は、分かっているから受け付けない)。

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本を読んだ直後の睡眠は、勝手に作った物語の夢を導く。その本の作家が、想像通りの声で物語を読んでくれる。

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号泣する準備はできていた (新潮文庫)』が文庫化したので買いに出た。一体この作家はどんな結婚生活を送っているのだろう。複雑な感情の網目、具体的に離婚、不倫、浮気を題材にした作品が続々と出ている。分からない部分もある一方、分からなくもない部分もある為に読んでしまうのである。「私も同じ事を感じた事がある!」と誰もに思わせる事を描くのが、とても巧い。
裏に載っている書評について「これは違うのではないか」と感じる事が時時あるが、この本についても「そうなのかしらん」と文句を云う。詰まるところ、「そう」なのかもしれないが。(書き方が違うだけで云っている事は同じ、と云う事の飲み込みが遅い私が、しばしば説得し直される事がある。が、もう一つ反論するならば、云っている事が同じでも表わし方が違うなら込められている事も多少なりとも異なるはずだ)
文句は脇に置いておいて、友人の或る幸せな報告とは「食べ合わせ」が良くなかった。ただそれだけの思いで、表題作以外は読み飛ばし、暫く本棚で眠らせておく事にした。事実は小説より奇なり、圧倒的な現実を目の当たりにして、小説を味わう事は不可能らしかった。
「呪い」と「祈り」という単語が一文中に並列している。考えてみれば、二つの単語は正に「書き方が違うだけで云っている事は同じ」であるから、そら恐ろしい。それこそ、「云っている事が同じでも表わし方が違うなら込められている事も多少なりとも異なるはず」であって欲しい。
号泣したから、好きになって貰えたのかな。そんなものなのかな。

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そんなものよ、と片付ける事を強要されている。特に、人間なんて、友人なんて、社会なんて。嫌だ、と抗いたい。それでも希望は夢はエゴは捨てる事が出来ないから、苦労した方がまだ良い、と。自分なんて…。

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結婚に関する話題に触れ、結婚雑誌の広告や赤ん坊を見かける、また先輩や同期の結婚報告を受ける。遂に、否応なしにも「結婚」「出産」について考えさせられる歳に到達してしまったらしい。結婚ラッシュもそろそろ始まるのだろう。全く実感が湧かない。
想像と実感は別物だ、という事に、年齢を徐々に重ねていくうち気づいていく。自分の幼さと人生経験の浅さにも、同時に気がつく。
私はきっと平凡で穏やかな人生を送るのだろう。派手さを望んだところで、生来そんな事は無理である。「こういう子育てがしたい」と思っても、出来る事しかきっと出来ず、子どもも自分の様な子に育ってしまうに違いない、と母を見ていて思う。こちらは実感であるが。
「なるようになる。なるようにしかならん。」と誰かが云っておられた。

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他読書:『おめでとう (新潮文庫)』フォントが美しい。
折角新潮文庫を二冊購入したので、マスコットプレゼント応募葉書を書いた。
古典的作品を読み漁りたいが、近頃長い読書だと精神力がもたない。
『我が愛する猫の記』(ジルベール・ガヌ著 大塚幸男潮出版社 1973)という本を、そういえば鞄に入れっぱなしで開いていない。気分が乗れば、と思っているうちに、日が経った。