連れていって、どこかへ.

短編集を単行本で買うのは、何だか贅沢な気分がする。一篇ずつの大切さと重み(頁の)が、文庫版とは異なる様に感じる所為だろうか。

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猫の居場所が消えていた。いつも猫達が寝ていた場所に昨日から植木鉢が敷き詰められている。家主がいい加減迷惑に感じ始めたのだろうか(餌をあげていたのに)。猫を見ない日はさびしい。帰り道に暗がりで二匹に出遭ったが、暗くて顔が見えなかった。

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人から介抱してもらう程酩酊したひとに、いい加減自己責任をお互い意識していこう、と云うついでに、「そんなんじゃ、いい毛糸になれませんよ」と送信したところ(ひとはきつい天然巻き毛の為によく羊に喩えられる)、「ダメな毛糸です」と返信有り、研究室でひとり笑いを堪える。

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Mr.Fridayは引き続きお疲れで、今日は先週と違いテンションを低く保つ事で疲労を乗り切っていた。そろそろピークなのかもしれない。悲劇として語られた物語を、果たしてお涙頂戴の「悲劇」とそのまま受け取る事についての疑問について、説いておられた。興味深いが悩ましい。自分がどんな価値観で以って作品や日常を把握しているか、という事が露見するから、少々悩ましいのである。

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祭りの浴衣姿が多く、バスでは箪笥の匂いを嗅いだ。外国人がやたらと多く、様々な異国語を耳にする。

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「ひとり好き」が長いので、居場所を見つける事は得意である。また今日も見つけた。高いところがどうも好きらしい。が、コーヒーの料金が中途半端に高価な点がいまひとつである。

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家族と暮らし、街を歩くと多くの人間と接するから、ひとりで生きているはずがないのだけれども、本当に皆存在しているのか、不意に分からなくなる事がある。好きな気持ちや、側にいたい気持ち、信じる気持ち、あらゆるプラスの感情の信憑性について、自分で自分を疑わしく感じる事がある。 周りは闇で、ぽつねんとひとり、生きているのではないか、と思う。それならそれで仕方がないけれども、この、どうも「愛しているらしい」感情は一体どこへ行くのだろうか、やはり闇に吸い込まれてしまうのか。
足を踏み外して落下する夢を見ている様な、変な感覚に陥る。泣いてみても、頬をつねってみても、答えと反応は返ってこず、これもやはり「信じる」という事で対処していかねばならないのかしらん、と従来からの「対策」をやはり適用してみる。
SF小説やドラマにありがちな展開、実はあなたが「過去」として抱いてきた記憶は、他人によって操作、注入されたものでしかないのです、という事があっても、別段混乱する事はなさそうだが、やっぱりそうだったのか、と落胆はしそうだ。
・・・こういう事を実際に口に出すとしばしば、本の読みすぎだ、と云われる。そんなに読んで影響を受けたつもりもないし、SFはあまり好きではない(頭がSFの世界で染まり、「ここから出して。出たい」と悲鳴を上げるからだ。きゅうきゅう、という感じに)、そしてこちらとしては、とても真剣に悩んでいる事なのだが。
私の事を嫌いになったら、出来るだけ早く「嫌い」と云って欲しい。そうすれば、気づく。自分は誰かを愛しているらしく、そして誰かが周りにいるらしいという事を、だ。(嫌われる事自体は致し方ない。特定の誰かが悪い訳ではないから)

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どうも少し、ひとりを堪能し過ぎた様だ。好きなひと人を含めた他人の事を、忘れかけている。否、忘れて楽をしようとしている。
どこにいるのだろう、私と人は。