単純にも.

ひと人とどういう付き合い方をしたいのか、分からなくなる時がある。そんな時は出掛ける事が億劫になる。少しのユウウツ。
特に、どういうひとで何を求めて求められているのか、というものが吹っ飛んでしまい、「もう私は駄目かもしれません」と思っては、電車でこっそり泣くのだ。ハンカチは必須である。
今日は対人の不明点に加えて、就職について母と云い合って家を出て来た事で、外面より内面が雨に濡った様にぐっしょりと重かった。しかも、「おばあさんに道を尋ねられて」とかで遅れて来たいいひとに、到着時間からたっぷり30分待たされ、疲れた足から溶けて流れてしまうかと思った。

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後輩がギターの演奏会を開くらしい、とひとに聞き、連れ立って聞きに行く。H.ヴィラ=ロボス「エチュード第七番」とマラッツ「スペインのセレナード」が特に好きで、生を聴く事が出来、満たされた。特に、ギターと小声で話をする様に、或いは恥ずかしがりながら口説く様に演奏されたセレナードは堪らなかった。あんな風に口説かれるか、小さく話をしながらお酒を飲めたら良い。
会場から出る時にはすっかり足取りが軽くなっていた。単純である。

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水無月というお菓子を、通りすがりの和菓子屋で薦められたが、2切れ入りか5切れ入りしかなく、4人家族の為に諦めた。切り分けて食べたら良い、と気づいたものの、その場で答えを出そうとすると混乱する為、放棄した。こうして逃げているから、必要な脳の部分がちっとも鍛えられないのだろう。寝る前にでも結論を出していこう。水無月買おうと思ったんだけど、買わなくてごめんね、と云うと、文句云いの父が一言「水無月はもう終わったやん」と云い放ち、その場は片付いた。どうも関西限定の菓子と風習らしい。ういろと同じく原料は米で、その土台の上に小豆が乗っているそのお菓子を、古都では6月31日に食べる風習がある。昔はわざわざ菓子屋が、一軒毎に注文を取りに来た、という話を祖母から聞いた。

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昨日一晩論文漬けだった所為で、張り詰めていた神経が寝台の上で解けた時、睡魔を縛っていた縄も同時に解けた。あまり肩と腰が痛むので、寝台にマットレスを敷いて眠る事にした。ふかふかで寝坊しそう。幸せだ。

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大切な友人のひとりと電話をする。数ヶ月音沙汰がない間に、多くの驚くべき!事が多すぎて、うまく話せない様だった。こちらは色々悩んで暮らしているけれど、無事に働いているのかしらん、と思い込んでいたらば、予想に反して、調子を悪くして療養中だと聞く。やはりバイオリズムが似ている。うまく行きそうだけど、すんなりは行かない。
生きている幸せ、恵まれている幸せを叫びあって電話を終えた。私達って、幸せよね。ありがたいよね。びっくりよね。
もっと不幸な人がいるのだから「これしきの事は何でもない」と思って頑張れ、という理屈は納得出来ない。幸と不幸は主観であるから。慮ろうとする事は可能らしい。

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頑張っているのだが、「まぁもうちょっと頑張んなさいよ」と応援してもらうのは嬉しいから、両親には感謝する。意見と愚痴は云わせてもらう。