道楽感情.

帰りの電車で、眼鏡を膝に置いて眠る男性を見かけた。俯いた顔はわざわざ覗き込んでまで見なかったが、身体格好の美しさの上に、特別な代物、属性である眼鏡がくっついているこの構図は、妄想を駆り立てる。何の関わりもない人の、眠る時に眼鏡を取る、というひと時の特別な行為、と考えると、という事だ。ふと目を醒ましてかけなおし、何でもない「眼鏡をかける人」に戻っていったが、彼は先程眼鏡を外していたのだ。この彼にとっての「特別」は、他にどんな時どんな人にもたらされるのだろうか。私を振るわせたのは詰まるところ、その無防備さ、らしい。
・・・ちょっとある部分が病んでおかしくなっている。

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先週に引き続き、他大学に論文を探しに行く。試験期間である所為で、図書館は混雑していて、閲覧・自習スペースもざわついていた。大学院は試験が無い為(今期は学部の授業を受講しているから、一教科だけ受けねばならぬのだが)、必死で試験期間だけ勉強する学生達を見かけると懐かしく思う。気になるのは、隣席の女の子のヘッドフォンから漏れていた音くらいだった。在籍している研究室の、「勉強は当たり前」という空気よりは、全員が切羽詰った空気の方が、居心地が良いに決まっている。結局研究室に戻らねばならないのだが。
自宅の自室は二階の西向きで、遅い午後は暑く強い光が差し込む、極めて健全な部屋なので、身体というより相棒のPCに差し障る。窓辺に植物を置くなら注意が必要である。水遣りと置き方について手抜きをすると、たちまち再起不能状態まで萎れる。
数時間図書館に籠もった後、遅い時間まで開いている書店に『ハチミツとクローバー』を探しに行く。降り立った駅近くの書店に行くと、探していた巻だけ見事に置いていなかった。これは、人生において何度か経験する「間の悪さ」のひとつである。 結局購入したのは、探していた巻ではなく、一巻飛ばして、好きなキャラクター(無論眼鏡の君)が中心に描かれているらしい巻だった。とばしとばし読む、という事はたまに行う、ずぼらな読書人なのだ。
書店近くのコーヒーチェーンで(書店の近くにコーヒー屋を作る事を最初に思いついた人は、なんと商売上手なのだろう!)半分程読んだところで時計を見、慌てて帰途に就く。

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伽藍堂の様だ。取り込んでしまった沢山の他人の云い分が響くだけ、自分がどこにいるのか、分からなくなる。幽霊屋敷、とも云える。記憶というのは過去というのは、すでに死んでいる。
自分の意志を持たずに他人に流される人間になってはいけません、と小学校の校長か誰かが云っていた気がする。他人を取り込みすぎてしまった。
精神的に不調な知人、友人が何人もいて、どうしたら良いものか、慌てる。自分にも決して余地がある訳ではないが、それは誰でも同じであり、そんな理由で放っておいて良い訳でもない。メール一本でも慎重になる。そうしていると、自分がぎりぎりになっていく。何か大切な事を忘れそうだ。自分の為なのか他人の為なのか。私が柔やわと生きているから、話を聞いて欲しい人達が集まってくるのだろう、と時々云われる。

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結局どうするんだっけか、と論文に気を吸われて他にすべき事を忘れていた。就職活動があった!