現象としての男性、とやら.

降りしきる雨の中に、楽器をビニルで梱包し、重い鞄と傘と共に出ていく。数分で腕が痛くなった。楽器を貸してくれ、とわざわざこんな日に云った張本人は、「駅に着いた」と送ったメールの裏側「着いたので、迎えに来て持って欲しい」を読み取る事は当然なく、屋根の下で佇み、門から不機嫌な顔をしてやってくる者をじっと待っていた。
たまの不機嫌をぶつける相手はひとと家族しかいない。不機嫌をぶつけて黙り込む、これすなわち、甘えるという事である。後々文句を云ったらば、ごめんね、ではなく、ありがとう、と返って来た。そういうひとなのだ。
午前の授業を終えて、カレーうどんを食べに行く。出汁が利いたとろみのあるカレーは極上で、この店のものは時々無性に食べたくなる。他ではカレーうどんなんて食べる気がしないのだが。ちなみに、カレー丼というメニューは、勿論丼に盛り付けたカレーライスとは全く違う一品に仕上がっているから、また食べ甲斐がある。

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研究室に居づらいから帰宅しよう、と決めたのに、何となく足がボックスに向き、気がつけば楽器を弾いていた。3時間くらいだろうか。あれこれ弾くとそれくらいの時間はあっという間に経つ。同期が使っていた楽器は、とても「いいこ」にしていた。先日演奏会を主宰した後輩に、唐突に、今度出てくれ、と頼まれる。随分弾けなくなっている事を実感している最中に、勿体無い話と気遣いが来た。
一度練習した曲は、いつまで経っても何となくなら弾く事が出来る。

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身体を動かす事が出来ない毎日はもう疲れた、他の人が羨ましい、と云う友人に、どう付き合っていけば良いか、電話を握りながら黙々と考える。飛び出していって連れ出して旅行にでも連れて行けると良い。けれども、彼女の事が好きだがそれぞれ忙しくしている知人達同様、自分の事と予定はなかなか動かし難い。
所詮ひとりぼっちなのだ、と思うのも仕方が無い。確かに、人は自分の事で精一杯なのだ。それでも何が出来るか、ぎりぎりまで考えたいと、今は奮闘している。
だた、会って話をすべき人が何人もいる事が問題なのだ。あまり他人を取り込みすぎると、自分を忘れてしまう。そしてリスクが高い割に、他人にもたらす事の出来るリターンは低く、その事実が自分へのリターンも低める事になる。
今更だが、自分をしっかり持つ事の大変さ、と個人的に苦手である事が明確化する。相談してもらえる事、色々な話を聴く事は非常に有意義であるがしかし、貯蓄するばかりで、自分自身の人生に反映出来ていない事に問題があるのだ。

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「その他の雑酒」とやらを飲みながら、3度目になる「ハウルの動く城」を観ていた。「美しかった事なんて一度だってないわ。(…) もう知らないっ!」ここでいつも同調する。

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「伽藍堂病」に罹った人の末路を知りたく、『響きと怒り (講談社文芸文庫)』を読もうと手に取ったが、やはり講談社文芸文庫は高価過ぎる。
Mr.Fridayに寝顔を見られた恐れあり、彼の目を見つめたまま夢に突入してしまった。とてつもなく眠くなる午後の数分間に。

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「あの演奏(会)は聴くべき(行くべき)ですよ」そういう事を云う後輩は好きだ。師匠のアンサンブルリサイタルに行かなかった事に対して(勿論都合により、だが)叱られた。