「タ」から退屈と怠惰の音.

uopus2006-07-31

昨日撮った写真を載せておく。

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やっと蝉が鳴き出したが、今年の蝉は随分小柄で気の毒に思う。
猫はやっと見つけたらしい日蔭、芋の葉の下で、ヴァカンスを楽しむ婦女の様に横座りで寛いでいる。その表情が尤もらしく少し生意気で可愛らしい。
一緒に歩いていて猫がいると、ひとは必ず教えてくれる。暫く立ち止まって観察する。

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午前中未だ寝ているところへ、小包が届いた。差出人を確認すべく、包みを裏返し寝ぼけ眼を押し開いて見てみると、茶色いインクで「貸本喫茶ちょうちょぼっこ」と押されている。そういえば一週間前に古本を二冊頼んでいたのだった。ちょうちょぼっこは、大阪にある貸本喫茶で普段は本を売ってはいないが(売るのは惜しいから貸本をしているのだとか。気持ちはとても分かる)、ホームページで時々古本が売りに出されている。そのうち、欲しいという本を見つけて注文したのだ。「売るのが惜しい」と云っている方々から二冊も買い取るのは何となく忍びない。しかし、好みの品揃えである所為で、イベントで出ている時やこうしてネットで売りに出されている時は、欠かさずチェックしてしまう。ネットで本を注文する事も、すっかり慣れてしまった。
『奇人変人御老人』(永六輔 文藝春秋 昭和49年第二刷)、『歌舞伎十八番』(戸板康二 中央公論社 昭和30年初版)をこの度買った。前者を捲ってみる。一冊の本を読む時間があったら一人のご老人の話を聞こう、という考えに同調し、購入を決めた。奇人変人御老人のインタヴュウ集で、二編読んだところで、とてつもなく面白く、そして笑いが漏れる程面白い一方で深みのある話が展開されている事が判明した。久々に「神棚級」の本に出会った。6ページ目にして隠語が出てくるあたり、熟年は性にこなれて我がものにしている…

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先日から少しずつ読んできた『愛のパンセ (新風舎文庫)』を、遂に読み終えてしまった。ゆっくり読む読書も気に入っている。読む速度は本によるのだ。外出で疲れた身体を寝台に横たわらせながら読む。こんな怠惰な時間の使い方も、そろそろお終いにせねば、と思うが、やはり夏は勉強向きの季節ではない。

 今朝、薪木をきりに出かけて、ふと自分の腕を見たら、真黒に陽灼けしていました。こんなことにもぼくはあふれるような喜びを感じてしまいます。日傭労務者からみれば、とんでもないぜいたくな話でしょう。しかし詩人には詩人としての役割があります。それにはっきり気づいていることこそ大切なのではないでしょうか。詩人は言葉に呪われていて、本当に怠けるということが出来ないものです。牧場の陽だまりで一日中昼寝をしている時にも、ぼくらは牛にはなれやしない。それが苦しみであり、それ以上にそれを喜びとしなければならぬのではありませんか?
「山小屋だより」より

幾つも感じ入る文章はあれども、今日はこの文にはっとした。厳しい一方で喜ばしい。

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高校の現代国語で、「皿皿皿皿皿…」云々という詩と、江守徹か誰か(聞き比べをした気がするが)による音読を与えられた記憶が不意に甦る。誰の詩だったか、と調べれば、高橋新吉*1の詩らしかった。

「皿」

皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿
倦怠
額に蚯蚓這ふ情熱
白米色のエプロンで
皿を拭くな
鼻の巣の黒い女
其処にも諧謔が燻すぶつてゐる
人生を水に溶かせ
冷めたシチユーの鍋に
退屈が浮く
皿を割れ
皿を割れば
倦怠の響きが出る

少なくとも高校生の時よりも、よく味わう事が出来る気がする。特にこんな怠惰な書生には。

*1:高橋 新吉(たかはし しんきち、1901年1月28日 - 1987年6月5日)は、日本のダダイスト詩人。若い頃の性急なダダから、次第に、仏教・禅に興味を向け、独自の誌的境地をひらいた。詳細