”cõgitõ, ergõ sum.”

今日も金魚掬いに出くわした。地蔵盆らしい。夜の八時だというのに、子どもが多い。夜更かしする子どもと、子どもを平気で夜更かしさせる大人が増えていると聞いたので、心配になる。がまあ、祭りの時ぐらいは良いのだろう。

金魚掬い一回百円、というのは金魚に失礼ではないか、と思いつつも、子どもに混じってあのつるっとしていて赤くて小さいのを掬いたくなる。がしかし、旅に出てしまうのを見送るのが怖くて、我慢し続けている。
食べ物の匂いにつられて野良猫が顔を出さないか、と期待して歩いたが、一匹も出くわさず。彼彼女らは想像以上に警戒心が強いか、子どもが嫌いなのかもしれない。

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何も考えたくなくしたくもなく、寝台に横たわる。申し訳ないけれども。
なんて我儘に生きているのだろう。幸せを土台に生きているくせに、その幸せに寝転がったまま、何もしないなんて、人間として不毛過ぎる。

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pcの前に座ってみた。キーを叩く。 深爪が痛む。 外出する前に塗った日焼け止めの匂いを自分の身体から嗅ぐ。商業的な匂いだ。これが日焼け止めの匂いとか汗の匂いではなくて、丁度良い分量の丁度良い香料なら「頑張っている」気にもなるのだろうが。

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夏の間はずっと、比較的風通しがよく涼しい居間で作業をしている。その所為か、自室は風か泥棒にでもかき混ぜられた様な有様で、紙類と書籍と鞄と鞄の中身が床の上に散っている。寝に帰るだけの部屋、にしても酷い。何か沢山のいろいろなものに甘えている気がする。
放置しないでいい加減にそろそろ読んでくれよ、という本達が、床もしくは机の上で退屈そうにしているのを、よく見かける。ふむむ、ごめん、もう少し待ってくれ。
もう随分待ったのだけどまだなの、そういう声もよく聞く。この声は必ずしも本だけに限らず、関わっている人の目から発せられる事も近頃ぢゃよくある。
声や視線を意識すると、何にでも口や目がある様に感じられるが、意識しない時か一方でそれらの存在を希望する時は、世界は静かに眠りに就いているが如くである。
今は生きていていずれは死ぬ、という何でもない事実の上で、どれだけ意識というものに頼って生きているのだろう。我思う故に我在り、と云いたくなる気持ちも分かる(ニーチェか誰かが否定している様に、この結論はあまりに短絡的であるにしろ)。

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深爪が痛む。
師匠は楽器を止めたいと思った事はないのですか、と聞いてやろうと思い、意気込んでお宅に伺ったまでは良かったが、心持ちいつもより厳しくされまた落ち込む。きっと「この子にはもっと厳しく云って練習させる必要がある」とでも判断されたのだろう。あまり厳しくしては、と思われるよりは助かる。
ここ数週間、こころがふやけた様になっている。常に水気を帯びていて、少しでも力を加えると涙が滲む。人の前で泣くと迷惑をかけるので今日も必死に耐える。楽器を弾くのを暫く止めにしたい、と思ったところで、レッスンの予約は入れてしまったし、楽団の練習にも行かねばならない。
何とか持ちこたえてレッスン後の雑談に移る。例の質問を浴びせかけたところ、そらあるわ、とのお返事あり、しかしそれは単に進級の折に続けるか否かを考えた事があるだけの事だそうだ。プロになるような人には、苦労はあっても本当に湿気った思いを抱く事はないのかもしれないし、単に一人の大人かプロとして個人的な事は口にされないのかもしれない。
やはり出来る事は、練習しかないらしい。どれだけ時間がかかっても、どれだけ自信がなくても、劣等感の塊に過ぎなくても、そうして進んでいくしかないのだ。自分の不快な音に耐えながら。自分の不器用な手を見ながら。
やるしかない、やらねば零或いはマイナス、という事が多過ぎて苦しい。
またチゴイネルワイゼンを弾く様に云われた。泣きながら弾く事にする。
指の先と絃ばかり磨り減って行く。
本当に続けていくつもりなのだろうか。
二十億光年のユウウツ。

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折角集めたのだし、音楽的うつ状態を打破する為にも、音楽家の著作でも読むか。一年か二年読まずに放置してある、フルトヴェングラー音と言葉 (新潮文庫)』という本から。
そろそろ古本ネット購入熱が疼いてきた。

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三時に起きだしてきたものの、眠い気がするので寝る事にする。・・・眠い、という事まで「気がする」というこの自信の無さと無責任さは一体何だ。