文魚の食欲.

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地についた猫の尻尾の可愛さは、カーヴを描いていて更に先が曲がっているところにあるらしい。

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日記を書く事にした当初は、句読点の打ち方を課題に据えていたが、近頃では、助詞の使い方とヴァリエーション不足を改善する必要がある事に気づく。がしかし、一体どう訓練して良いものか、浮かばない。接続詞にも同様に問題がある様に思え、何やかやと苦悩は尽きない。

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ネット書店で欲しい本が売れていく様子を見つめている。縁があればいつか巡り逢えるだろう。商売をしている訳でもなし、出会いはのんびりで良いのだ。

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お知り合いが赤ん坊の写真を求めているそうなので、母の書棚からアルバムを引っ張り出してきた。
写真が多いのは第一子の特権である。当たり前に母も父も若い、涙が出そうなくらい若い。そして、若い母はやはり自分と似ている。・・・顔は一緒なのに性格が違う人をまたしても発見す。段々可愛げがなくなる一方で、コンプレックスの種である顔の造作が主張し始める訳だが、赤ん坊の表情の豊かさや柔らかさには驚かされる。その時々でお気に入りのポーズがあったらしく、3歳くらいのものは「おやすみ」ポーズの写真が多い。

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嘆いてばかりいるのも情けなく、嘆いたところでどうにもならないので、いい加減お終いにしよう。きっと、今が踏ん張り時なのだ。

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自分の子どもにしろ、猫さん一匹にしろ、養うという事は変わらず重大事なのだ。エゴへの反発をエゴで返す某作家の屁理屈は片付けられても、考える事は尽きない。

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方法論に囚われた科学的音楽が流布し、そのものを再現しようとする芸術的音楽が衰退しつつある、とフルトヴェングラーは述べている。その音楽は、その時代に何を主張しようとしていたのか、という事を抽出する必要がある、との事。「偉大なものは単純である」とする章を読み進めていると、一体作曲家(だけに留まらず他の芸術に携わる作家)は、何を思って芸術を編み出し、何を表現するのだろう、という疑問に当たる。プロに聞かねば分からぬこの疑問は、暫く保留か。しかし、他人時に自分自身の視線を気にして作成しているとすれば、逆にこちらから鑑賞(観賞)する場合も、作品の中の作家か何者かと対話をしてやる必要はある、という想像はつく。
自分の内心を曝け出し表現する、という事は、価値観にまとわりついたコンプレックスや罪悪感も一緒に曝け出すという事で、相当のエネルギーを要する。何も芸術活動でなくとも、日常生活から、その苦労はもう十分実感してきた。だから、芸術はエネルギーの塊なのだ。爆発、という言葉も相応しく感じられる。芸術に秘められた紆余曲折を、「ああ、よくあるよね、それ」「ああ、このタイプよね」と知った顔、つまり一般的な方法論で片付けられたとなると、さぞや作家達はお怒りになるだろう。まあ自由に考えてくれ、という作家もいるだろう事を考え始めると、先の疑問に立ち返っていってしまうのだが。芸術は受け手がいないと成り立たない事は確かであろう。何だかんだ云っても、芸術家もやはり人間なのだから・・・。
しかし最初の章と終章を読んだだけで(大宇宙、という単語が出てくる等意外に深くて読みづらく、流し読みでは対応出来ず)、またもや音楽的鬱状態が復活しそうになったので、バッハやらベートーヴェンやらの章は読まずに、再び書棚に戻しておいた。