ディタグレープの世界.

ぐうたらと読書をした後、三県先まではるばると、引退した部の先輩出演バンドのライヴを聴きに出かける。電車の振動が伝わってくる、高架下のこじんまりしたライヴハウスで、お酒と共に音楽を味わう。賑やかで楽しい場は好きで存分に楽しむ事が出来るが、人の目にも明らかな位「派手に」楽しむ事は苦手である。が、お呼ばれのお礼に頑張ってみた。疲れたが、たまには良い。本当は、杯と耳を熱心に傾ける、という静かな楽しみ方が、自分にとっては一番楽なのだ。
仕事から直行と云う先輩は、仕事着のまま、つまりシャツとネクタイ姿のままでギターを抱え、熱唱されていた。意外性というかストイックというか何と云うか、ギャップが良い。(この感慨は一般的らしく、案の定他の観客からの受けも良かった、との事)

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ライヴ前に、同行した後輩と食事をする。お世話になっているOBさんが常連の店で、よく連れて来て貰っているらしい後輩と店のマスターは顔見知りになっていた。出し巻き卵が丸ごと出汁にどぶんと浸かっているもの、はんぺんにパン粉をつけて揚げたもの(山葵醤油付き)、鮪の山掛けパスタを戴く。どれも意外に美味しい組み合わせで、久々に外の外食で楽しい思いをした。
やはり気遣いの仕方を忘れてしまっている。こうすべき、と気づいたとしても、身体が即座に動かない。二歳年下の前で情けない思いで一杯になり、その所為で体力と気力を消耗する羽目になった。相変わらず、頼りない。

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懐中時計 (講談社文芸文庫)』に収められている「エジプトの涙壺」を読了す。痛々しさと寂しさの表現が巧くて、余計に困ってしまう。誰も涙を落としはしないが、涙に丸ごと包まれた作品である。涙を落としたがっている。

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ぱち、とスイッチが入り、てきぱきと自室を掃除し始める。一体何者がこの気紛れなスイッチを握っているのだろうか。気紛れ更正法も、忘れてしまっている事に気づく。

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古都の寺のライトアップを観に行く、という両親と、同時に家を出て、途中まで一緒に電車に乗っていた。駅のホームで、父が「そらがあんなに広くなっている」と呟いた。現実に一生懸命な父でも、ふとそらを見上げる位あるのだ、と意外に思いながら、その呟きに促されてそらを眺めた。