現実的現実について.

探している本が、意外にもブックマーク付きで時々通っている古書店で見つかった。贔屓にしていると良い事があるのやもしれぬ。『おやじの女』(安藤 鶴夫)をメェルにて注文し、足で取りに行く予定である。送料も手間も、「未だ来ない」という辛抱も要らず、非常に都合が良い。従って機嫌も良い。

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徐々に涼しくなり、胃が裏返りそうな危機感と気力が甦り始めている。就職活動を再開する。十分に休養を戴いたので、もう今後はぐずぐず行くつもりはない。集中力がものを云うだろう。
三年契約で成績が良ければ更新、という契約社員の募集が出始めた。転職の時代である今日この頃、三年でヴィジョンを見直すには、都合の良い雇用体制かもしれない。が、会社側は実際に、どういう意図と都合でこの制度を採るのか知らない。正社員と同等の扱い、という云い分も甚だ疑問である。体よくあしらうだけのつもりである可能性もあり、信用は出来ない。

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大人っぽい、と評価される事について、疑問を感じている。
直接他人に伺ってみれば、「他人に自分を押し付けない」「説得力のあるオーラ」「空気を読む」「感情を表情に表わさない」という特徴に対する評価らしい。確かに、人に体当たりしない点、事無かれ主義、冷めている点、地味で暗い点、事柄を何とか分かろうとする点、という裏側の特徴については、自分では把握しているつもりである。
大人っぽい、という事と、大人である、という事は違う。大人ぶっているつもりはないが、そう思われる事もあるには違いない。「大人になれない」「大人なんてつまらない」という子どもの持つ価値観が蔓延する世界で生きてきた子どもの私はずっと、大人っぽい、と云われる事に対して疎外感を覚えてきた。そのくせ、真に良い意味での「大人」では決してなくて、大人っぽい自分と実際は子どもの自分との間の溝を、見つめるばかりでいつまでも埋める事が出来ないでいる。
一度で良いから子どもになりたい。今も子どもだけれども、子どもっぽくなりたい。そのくせ、子どもの世界に置いて行かれる事が怖いのだ。このまま大人になる事が出来ずに、蛹のまま腐敗していく事が怖い。
分裂しそうだ。

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Internet Explorerセキュリティホールが危険だというので、ブラウザの乗り換え作業をする。なかなかすべての「痒いところ」に手の届くブラウザは無い様で、あたまが痛い。ある程度のセキュリティを確保出来ると「云っている」Geckoエンジン付きのLunascapeに落ち着いたものの、先程から動作が停止するというエラー続きである。