日曜読書家の一日.

本棚に入れない本の群れの前でしゃがみこんで暫くじっと本を見つめていた。なぜだか知らぬが落ち着く。今読むにはどの本が一番良いのだろうか(実際には読まないけれども)。楽ちんすぎても厳しすぎても、長すぎても短すぎてもいけない。テーマも、美味しいものの話はいけないし、恋愛ものでもない。丁寧な生活のものはお天道様に申し訳なさ過ぎて泣きそうだし、放浪記なんかは一度入ればもう現実に戻ってこれなくなる。写真集は時間がかかる。短編、掌編すら読む時間と気力がないし、こんな読者に読まれたら作品が可哀相だ。よって何も読まない、しかし今「ちょっと」手に取ってぽりぽり読むには『時間 (講談社文芸文庫)』が良いのだろうな、適度に焦らせてくれそうで。文庫版ではなくて、藍に近い青の布張りの古い版だ。ちょっと覗いたが、旧漢字と旧仮名遣いと厳しそうな文章が延々と並んでいた。出だしの数行がとても良くてげっそりはしない。
ふと辛うじて本棚に収まっている本の並びを見ていると、『螢・納屋を焼く・その他の短編 (新潮文庫)』が目に入り、続いて『村上ラヂオ (新潮文庫)』も手に取って欲しそうにしていた。前者は人生で始めて購入した(しかも新刊書店で買った覚えがない、謎の経歴の本だ。古本屋の店先で二束三文で売られていたか、高校の図書館の廃棄バザーに出ていたか、だ)村上春樹の作品で、納屋を焼いてまわるのかあ、とか、寝たのかあ、とかそういう、「文」に対する率直過ぎて他には何もない感想(というよりも印象)を当時抱いていた気がするが、ちゃんと全部読んで「ふうむ」と一通り思った事は確かだ。回想をした後「蛍」を斜め読みして(斜め読みなんて嫌な作品だけれども)、本棚に戻す。その後、『村上ラヂオ (新潮文庫)』をぺらりとめくると、奇しくも昨日食べたかったが結局食べない事にしたドーナツの頁で、嗚呼もう、だから昨日ドーナツを買って帰って来れば良かったのだ、もちもちでかりかりでヴォリウムが、なんて贅沢云っていないで、と後悔した。ダンキン・ドーナツはないなあ、ダスキンはあるのになあ、といつも村上氏の作品を読みながら思う。ついでにもう少し本の背の列に目を走らせると、『哀しい予感 (角川文庫)』(この原マスミの画は気に入っている)が目についてやはりぱらぱらやったが、続けてぱらぱらしていると長くなるので止めて、諦めて作業に取り掛かった。十代の頃は専ら現代小説ばかり読んでいたのだ、と本棚の常連を見れば分かる。落ち着いた小説が多い。歴史小説も何冊かあるのは父方の祖父宅から、明治・大正・昭和の名作はいつか読むだろうと母方の祖父宅から、それぞれ運び込んであり、あるだけはあったがまともに読んだ記憶がない。
あまり読書家ではないのである、結局。

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それでもラーメンを湯がいたり、お茶とコーヒーを何倍か淹れたり、黒棒という黒砂糖のお菓子を齧りながら再放送の「アンフェア」篠原涼子は、甘い恋愛ドラマよりこういうサスペンスをやっている方が、ずっと魅力的だと思う。イメージの押し付けだけれども)を観たりで、結局ぼちぼちしか進まない。

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名探偵コナン」の実写ドラマ、小栗旬主演、というのを、観ようか観まいか迷っていて(二時間もテレヴィに取られるのは痛い)、母は「世にも奇妙な物語」の方を観たいと云うので、丁度良く三十分だけ観てチャンネルを譲った。小栗旬は眩しい青年で、見ているとなぜかこちらが恥ずかしくなる類の器量良しである。一体何が眩しいのだろうか。テレヴィのある部屋と扉一枚隔てた部屋で作業をしていたが、「世にも奇妙な物語」は丸聞こえで、実際画面に向かっているのとそう変わらず、全く作業に集中出来ない。移動しようそうしよう、と思った時に丁度、扉の向こうから猫が鳴く声が聞こえてきたので、つい猫につられて一話だけ観てしまった。「世にも・・・」は後に引くから、あまり観たくないのだ。話によってはその夜うなされる。幸い、良い声で鳴く黒猫さん(クロ)が登場した話は、めでたく終わった。

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哀しい予感、この題名で、哀しい、という漢字と単語を覚えた。哀しい予感 (角川文庫)
シチューの匂いがする季節になってしまった。