月の世界とわたしの影.

ミルクティー色の猫に逃げられた。何かしらあなたはどなた、という落ち着いた調子と足取りでトラックの下に潜って行った。
溝の中に露草がぎっしりと茂っていて、朝には青い花を咲かせている。頑丈な植物だな、と覗き込むのに暫く時間を取ってしまった所為で、予定していた電車に乗り遅れた。

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グループディスカッション、という選考会に出掛ける。人事の方から説明が済み、さあでは始めて下さい、と云われて一瞬場が静まった。後数秒は進んで誰も話さない気がしたので、率先する事にしてみた。その後も引き続き、積極的に口を開く人達ではないのか、申し訳ない事だが発言しにくい場だと感じさせてしまったのか、疲れているのか何なのか、いつまで経っても盛り上がらない 上に話を振っても返事がない。結局時間に追われて何とか議論を閉じ、人事に最終的な結論を述べる役目に挙手はなく、一人相撲という最悪のかたちで終わる(全員参加のディスカッションをしなくてはならない、という事が大原則)。大体こういう場合、司会が良くないと思われる、そして確かに良くはなかったと自分でも思う、気遣いと、進め方や考え方への柔軟性がより必要だっただろうし、態度にも問題がない訳ではない。司会を引き受けた時点で抱いた予感が的中して、20時になっても電話は無かった。
頑張って駄目なら、私はひとりぼっちだ。

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面接後、昼食兼夕食をベーグル屋で摂る。夕方からプロのオーケストラの招待券に当選したという友人と連れ立って、都会の大きなホールに行く事になっていた。ベーグル屋に行き着く前に店の前で足が止まってしまって仕方無しに入り、事も在ろうかと買ってしまった『ひとつの音に世界を聴く』(武満徹対談集 1975 晶文社)を捲りながら、注文したベーグルが焼き上がるのを待った。「ベートーヴェンそして現在」という章が気になった為に買ったのだが、その頁に行き着くまでにカウンターに呼ばれ、仕方無しに閉じた。
胡麻を塗したパンを噛む度、いちいち胡麻が弾けて香ばしい。往来を見ながら何も考えずにベーグルを齧った。野獣の様に肉に夢中になる事は出来なかった、疲れていて。


誰が通過するのだろう、あの人かあの人か、彼らを苛々させていないと良いのだけど、話しにくくしてごめんね、という思いは始めると切りが無く、帰途に回す。

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オーケストラの曲目は、ブラームス作曲ヴァイオリンとチェロのための協奏曲とチャイコフスキー交響曲第五番であった。今日は息抜きにね、と云い合ってお誘いいただいたものの、始終現実が頭を過ぎって気分は晴れなかった。それでも聞き入ってしまう程、力のある、そしてこの土地のオーケストラらしい熱さと分厚さで音楽は語られていた。
休憩時間に喫茶コーナー(何と云うのだか知らないが)では、大人達がシャンパン、ワイン、ビールを片手に談話している姿が見られた。こうしてクラシックファン達は、今回の演奏の出来を語らうのだろう。婦女子はケーキに紅茶で一テーブルに集って談笑している。我々は水を戴いて、様子を観察するだけに留めた。そういえば、我が父はこういう場を「気取った奴等」と云って嫌っている事を思い出した。娘は、と云えば、場とお酒に興味深々で、うろちょろしている。
所謂「チャイ5」と呼ばれる位有名な、チャイコフスキーの第五番は、放課後の大学内でよく交響楽団が練習していたので、しっかりと「刷り込まれて」いる。主題が耳につきやすい。チャイコフスキーは管楽器に重きを置いている様子が耳に明らかで、友人曰く管楽器泣かせなのだそうだ。あまり有名でないブラームスのこの二つの楽器の為のコンチェルトは、ヴァイオリンとチェロの絡み(正しく「絡み」としか云いようがない)が素晴しかった。ロマンティックなだけでないブラームスの最終楽章は何だか変てこな曲想で楽しめた。がしかし、あれを自分で演奏するとなると途轍もなく苦労するのだろうな、という事を近頃どんなクラシックを聴いていても思ってしまう。
後ろの席に居た学生らしい二人が、ソロに感動して、その後は「チャイコ」という略称を繰り返して何やら熱弁を振るっていた。
音楽を聴いた後は興奮して物を云えなくなるのが常なのだが、今日ばかりは現実も先頃の夢も、夜の人工的な光と共に上滑りしていった。これからどうしよう、頑張れるのかな、何とか出来るのだろうか、そればかりが頭にあって、友人との会話も折角用意してくれた息抜きも、意味を成さずに後ろに消えていった。

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十月に何を思い出したのか、後輩(というよりお知り合いに近い)が「桜の下には死体が」という話の出典が知りたい、とウェブ日記に書いていたので(すでに彼女の知り合いが梶井基次郎坂口安吾という回答を寄せていた)、帰宅後梶井基次郎の『檸檬 (新潮文庫)』を手に取り開いて思い出すように幾つかの短篇を読んだ。「Kの昇天」「器楽的幻覚」「交尾」を読んで「近々読み継ぐ予定」の山の頂上に置き、本棚の同じ並びにあった太宰治の『ヴィヨンの妻・桜桃 他八編』(岩波文庫)を手に取って表題作二篇と「嘘」を読んだ。太宰が叫んでいる。

しかし、父は、大皿に盛られた桜桃を、きわめてまずそうに食べては種を吐き、食べては種を吐き、食べては種を吐き、そうして心の中で虚勢みたいにつぶやく言葉は、子供より親がだいじ。
--「桜桃」最終段落

「ちなみに、桜桃は太宰の嗜好ではなかったそうである」と解説(小山清による)にあった。